労働幾何

泥酔の幾何学

前回の講義――いや、泥水のような安酒を煽りながらの放談だったか――では、組織というものが如何に粘菌のごとき不定形で、かつ非効率な生存戦略を採っているかを論じた。個人の意思など、巨大な群体が分泌する粘液の中に溶け出した不純物に過ぎないという話だ。

しかし、その不純物たる我々一人ひとりの手元を覗き込めば、そこには「タスク」という名の、これまた救いようのない喜劇が転がっている。

朝、デスクに座り、まるで死に装束を整える儀式のようにToDoリストを書き出す。この行為の滑稽さがわかるだろうか。それは、爆発炎上して黒煙を上げる化学工場の前で、「今日はまず右手の火を消して、次に左足の焦げを拭く」と汚れた付箋に書き殴っているようなものだ。我々が「仕事」と呼んでいる現象の正体は、統計多様体上の頼りない点移動に過ぎない。君が必死に消し込んでいるチェックボックスの一つひとつは、虚無という名の巨大な胃袋に放り込まれる、味のしないガムのようなものだ。

汚泥の座標

労働とは、つまるところ情報の変形(Transformation)である。
だが、世のビジネス書が説くような「効率的なタスク管理」などは、牛丼屋の「並・つゆだく」という注文を、あたかもフランス料理のフルコースの構成案であるかのように粉飾する程度の意味しかない。それは、コンビニのレジ袋を有料化することで地球が救われると信じ込むのと同じくらい、救いようのない欺瞞だ。

情報幾何学の視点に立てば、個人の抱える仕事の集合は、パラメトリックなモデルが形成する「情報フィッシャー多様体」として記述できる。各タスクは、この空間上の座標だ。そして我々が日々感じている「忙しさ」や「圧迫感」の正体は、この空間におけるフィッシャー情報量、すなわち「確率分布がパラメータの変化に対してどれだけ敏感に反応するか」という感度の集積である。

例えば、昼下がりの弛緩した空気の中、無能な上司からの「ちょっといいかな」という一言が飛んでくる。
この一瞬の入力によって、君の脳内のタスク多様体は激しく歪む。元々予定していた「18時に退社して安い発泡酒を飲む」という座標の周囲で、確率密度が急激に希薄化し、未知の「特急案件」という特異点に向かって情報が吸い込まれていく。この空間の曲率こそが、ストレスの物理的な実体なのだ。それは、満員電車で隣の男の加齢臭が鼻腔を突いた瞬間の、あの逃げ場のない嫌悪感に等しい。

スマホのバッテリーが残り1%のときに、どうでもいい広告通知で画面が真っ赤に染まる絶望感を思い出してほしい。あの時、君の認知リソースは完全に枯渇し、多様体上の測地線(最短経路)を見失っている。君が必死にスワイプして消去しようとしているのは通知ではなく、自分自身の崩壊した精神の破片だ。

馬鹿みたいに。

我々は、情報の海で溺れながら、必死に「整理整頓」という名の砂遊びをしているに過ぎない。積み上げた砂の城が、次のメール一本で崩れ去ることも知らずに。

脂ぎった歪み

最近では、この認知の歪みを解消するために、やれ自動化だ、やれ高精度な予測モデルだと、シリコン製の計算機に演算資源を湯水のように投入するのが流行りらしい。だが、それは熱力学第二法則に対する、あまりに無邪気で、かつ傲慢な宣戦布告だ。

システムが高度化すればするほど、そこに含まれる情報量は増大し、結果として「認知エントロピー」もまた指数関数的に跳ね上がる。情報のノイズを削ぎ落として純粋なエッセンスだけを抽出しようとする試みは、二郎系ラーメンの「アブラマシマシ」を注文しておきながら、健康のためにトクホの茶を飲むような矛盾を孕んでいる。本質は、その過剰なノイズと脂の中にしかないのだから。

我々が「スマートな働き方」を目指して導入する各種のデジタルツール群。それらは一見、エントロピーを減少させているように見えるが、実際には君の脳の外側に「情報の広大なゴミ捨て場」を拡張しているだけだ。
通知を管理し、スケジュールを最適化し、タスクを細分化する。そのたびに、君の脳内の情報多様体は複雑な折り紙のように畳み込まれ、それを展開して理解するためのエネルギー消費量は、1ヶ月前の家計簿を見直す時の絶望感とともに増大していく。

なんだこれ。

結局のところ、我々は情報の幾何学的な「壁」にぶつかっている。
100円のボールペンで十分なはずのメモ書きに、わざわざ数十万円もするモンブランの万年筆を引っ張り出して、「高尚な思考」を演じている時の、あの吐き気がするような空虚な感覚。金のペン先が紙を削る感触に悦に入っているが、そこに記される内容は「明日の燃えるゴミを忘れない」だったりする。この、投じたコストと得られた成果の絶望的な乖離こそが、現代の労働構造そのものだ。

演算の墓場

認知エントロピーを管理するという幻想は、いい加減に捨てたほうがいい。
物理学において、エントロピーは減少することはない。できるのは、それをどこか別の場所へ「排熱」することだけだ。君がタスクを一つ終わらせたと安堵するとき、それは単に、君の頭の中にあった不快な情報が、部下のメールボックスや、会社の共有サーバーという名の「外部のゴミ箱」に移動したに過ぎない。

我々がタスクを完了させたと感じるとき、それは多様体上の情報が処理されたのではなく、単に君の神経系から別のシステムへと、エントロピーが転嫁されただけだ。仕事が終わった後のあの虚脱感は、脳という熱機関が排熱を終え、冷却水が尽きた後の、焼け付いたピストンの沈黙なのだ。

自動化された推論エンジンが、我々の代わりに測地線を計算してくれる時代。一見、認知の負担は減るように思える。しかし、その背後では膨大な計算資源が熱を出し、地球環境のエントロピーを爆発させている。君がデスクで涼しい顔をして「最適解」を眺めている間、データセンターの冷却ファンは、君の無能さを隠蔽するために、轟音を立てて熱を大気にぶちまけているわけだ。

座り心地だけは無駄に追求された30万円もするハーマンミラーの椅子に深く腰掛け、最新のディスプレイを眺めながら、我々は一体何をしているのか。
それは、情報のフィッシャー情報行列をいじくり回し、自分という不安定なパラメータが完全に崩壊して精神病棟に担ぎ込まれないよう、微調整を繰り返すだけの、極めて内向的で閉鎖的な幾何学ゲームではないか。

帰りたい。

結局、高度な論理も、精緻な幾何学モデルも、我々が「今日一日、一体何のためにこの無意味な文字列を打ち込み続けたのか」という根源的な不安を隠蔽するための、洗練された言い訳に過ぎない。
タスクが画面から消えても、多様体はそこに残り、次の不規則な入力(例えば、深夜に届く「至急確認」というタイトルの、中身のないメール)を待っている。

情報の海は、凪ぐことを知らない。
我々にできるのは、その汚い波打ち際で、少しでもマシな「諦めの方程式」を砂の上に書き残すことくらいだろう。

さて、蕎麦でも食って帰るか。
もちろん、エントロピーの塊のような、衣ばかりが厚い、冷え切ったかき揚げを乗せてな。

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