泥濘と測地線

序:冷えた枝豆とエントロピー

店員、とりあえず生を。あと、その冷え切って干からびた枝豆もくれ。どうせ私の人生も、この枝豆のように水分が抜けきっているんだ。共食いみたいなもんだろう。

さて、前回の議論で我々は組織の機能不全を熱力学的なエントロピー増大として笑い飛ばしたわけだが、今日はもう少し個人の「疲弊」という現象に寄り添ってみようと思う。いや、寄り添うふりをして、その実態を数理的に解体し、内臓をぶちまけてやるのが、せめてもの供養というものだ。

現代社会は「接続性(Connectivity)」を神聖視しすぎている。いつでもどこでも繋がれる、タスクはシームレスに連携する、情報は光速で伝達される。美しいお題目前提だ。だが、現実はどうだ? お前のスマートフォンは、通知という名の電子的な鞭で24時間お前の尻を叩き続け、お前の脳味噌は細切れにされたタスクの残骸で埋め尽くされている。これを甘利俊一らが提唱した「情報幾何学」の枠組みで捉え直すと、我々がいかに絶望的な空間座標に立たされているかがよく分かる。

まあ、そんな難しい顔をするな。要するに、なぜ我々がこれほどまでに疲れ果て、何も成し遂げていないのに寿命だけが削られていくのか、そのカラクリを酒の肴に話そうというわけだ。

泥濘:残業代という名の埋没費用

「効率的な仕事」という言葉を聞くたびに、私は立ち食い蕎麦屋のカウンターを思い出す。券売機で「かけ蕎麦」のボタンを押し、食券を出し、30秒後には物理的な空腹が満たされ始めている。あの無駄のなさは芸術的ですらある。そこには「承認プロセス」もなければ、「関係各所への根回し」という名の儀式も存在しない。あるのは、空腹という需要と、蕎麦という供給の、最小限の等価交換だけだ。

一方で、我々のオフィスという名の収容所はどうだ。メールを一本打つのに、まず「お疲れ様です」という無意味な呪文を唱えなければならない。内容がどれほど緊急でも、宛先に役職順に人間を並べ、CCには「念のため」という理由で、そのメールを読みもしない無関係な人間たちを大量に放り込む。これはもはや、仕事ではない。消化能力を超えた脂とニンニクの塊、あの暴力的な二郎系ラーメンを、完食できる見込みもないのに「全マシ」で注文し、後半の20分間を吐き気と戦いながら、ただ麺を丼の中で撹拌し続けるだけの苦行に等しい。我々は価値を生み出しているのではない。システムが要求する「儀礼」という名の不純物を胃袋に詰め込み、消化不良を起こして脂汗を流しているだけだ。

我々が「仕事が進まない」と感じる時、そこには単なる時間の不足があるのではない。タスクとタスクの間に、論理的には説明のつかない「泥濘(ぬかるみ)」が存在しているのだ。これをビジネス用語では「調整」や「コミュニケーション」と呼ぶらしいが、物理学的に言えば、単なるエネルギーの散逸でしかない。上司の顔色を伺い、同僚の嫉妬をかわし、無能な部下の尻を拭う。この粘着質の高い感情の残滓が、タスクの連結部分にこびりついている。

スマホのバッテリーが、何もしていないのにバックグラウンドで動く削除不可能なプリインストールアプリのせいで、ゴリゴリと削られていくあの絶望感を知っているだろう? あれこそが、現代のホワイトカラーが直面している実存的危機の本質だ。お前の人生というバッテリーは、お前が意識していない「調整」という名のバックグラウンド処理によって、熱を帯びながら無意味に消耗している。

測地線:給与明細という名の最短経路

ここで少し、酔狂な数理の話をしよう。統計的なモデルの集まりを一つの「空間(多様体)」と見なすと、そこには自然な「距離」が定義される。これがフィッシャー情報量から導かれるリーマン計量だ。我々が仕事をこなすということは、ある認識状態(未処理)から別の認識状態(処理済み)へと、この歪んだ空間の中を移動していく行為に他ならない。

理想的な労働とは、この空間における二点間を最短で結ぶ「測地線」をなぞることだ。測地線の上では、一切の無駄な加速度は生じない。つまり、余計な「迷い」や「手戻り」というエネルギー消費がない状態だ。理論上、我々はこの測地線を滑るように移動し、定時になれば光の速さで帰宅して、ストロングゼロを喉に流し込めるはずなのだ。

しかし、現実はどうだ? クライアントの気まぐれな仕様変更、朝令暮改を繰り返す役員の思いつき。これらは巨大な重力場として空間を激しく歪ませる。お前が真っ直ぐ進もうとしても、空間そのものが捻じ曲がっているため、お前の認知の歩みは蛇のようにのたうち回る屈折した軌跡を描かされることになる。

この「移動」の苦痛を少しでも和らげようとして、世の迷える子羊たちは道具に救いを求める。打鍵感がどうだとか、静電容量無接点方式がどうだとか御託を並べて異常な価格設定のキーボードを買い求め、指先の快楽で脳を麻痺させようとする。あるいは、座るだけで悟りが開けるとでも思っているのか、三十万もする高機能な椅子に身を預け、自分がひとかどの人物であるかのような錯覚に浸る。だが、言っておくが、椅子がどれほど人間工学的に優れていようと、座っている人間が組織の代替可能な歯車であるという事実は1ミリも変わらない。高い椅子に座って眺める景色が、蛍光灯に照らされた灰色のデスクと、死んだ魚のような目をした同僚の顔であるなら、それは高価な棺桶に横たわっているのと同義だ。

測地線は、お前のデスクからではなく、非常口の向こう側にしか存在しない。道具を揃えたところで、進むべき空間が泥沼であることに変わりはないというのに。哀れなもんだ。

摩擦:情緒という名の認知汚染

我々の脳は、この不条理な世界の「情報の曲率」を計算し続けるために、莫大な糖分と神経伝達物質を浪費している。仕事の接続性とは、このリーマン計量がいかに滑らかであるか、という一点に集約されるのだが、ここで最大の障害となるのが「人間」だ。

ここでいう「やる気」や「チームワーク」、「一体感」といった情緒的な概念は、数理的にはただのノイズだ。これらはフィッシャー情報行列の対角成分を乱し、最短ルートを隠蔽する濃霧に過ぎない。人間が「今日はチームの一体感を感じた」などと抜かしている時は、たいてい、その情緒的な摩擦熱によって、本来進むべき測地線から大きく逸脱している。エントロピーをまき散らしながら、自分たちが動いているという錯覚に酔いしれているだけなのだ。

科学的に言えば、達成感とは「予測誤差の減少」に伴うドーパミンの放出でしかない。我々は、自ら作り出したカオス(仕事の山)を、自ら整理するというマッチポンプによって、脳内の麻薬を生成しているに過ぎない。これを「やりがい」と呼ぶのは勝手だが、構造的にはパチンコ台の明滅に魂を売るのと何ら変わりはない。Excelのセルが埋まるのを眺めて満足するお前と、回転するドラムを眺めて脳汁を垂れ流すギャンブラーに、本質的な差異など何一つないのだ。

結局のところ、仕事の接続性を高めたいなら、まずはその「人間らしい感情」という名のバグをデバッグすることだ。上司への忖度、同僚への気遣い、部下への温情。これら全てを削除し、純粋な演算ユニットとして振る舞えば、理論上の測地線は見えてくるかもしれない。だが、もし君がそれを完遂したなら、君の精神はもはや人間のものではなく、シリコンと電気信号でできた何かに成り果てているだろう。

効率を極めた先にあるのは、立ち食い蕎麦の潔さを通り越した、絶対零度の虚無だ。そこには、お前を「人間」として認識してくれる者は誰もいないし、お前自身も自分を人間だとは思えなくなる。

……おっと、グラスが空いたな。喋りすぎた。どうせ明日になれば、また満員電車という名の家畜運搬車に揺られ、歪んだ時空へと出勤するんだ。

お会計。領収書は結構だ。どうせ経費じゃ落ちない「人生の消耗品費」だからな。

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