カピカピの枝豆と宇宙の法則
「働き方改革」という言葉を聞くたびに、私は金曜の夜の居酒屋で、誰にも手を付けられず皿の隅で干からびていく「お通しの枝豆」を幻視する。表面の水分を失い、皺が寄り、もはや植物としての生命力を完全に喪失したその緑色の死骸は、今の我々の脳味噌の姿そのものだ。世の経営学者やコンサルタントたちは、残業時間を減らし、生産性を向上させれば労働者は幸福になれると説く。あたかも、時間を圧縮すれば苦痛も圧縮されるとでも言うかのように。
だが、彼らが決定的に無視しているのは、この宇宙を支配する最も残酷で、かつ絶対的な掟――熱力学第二法則だ。閉じた系において、無秩序さ(エントロピー)は常に増大する。我々が「働く」という行為に従事するとき、そこで起きているのは単なる書類作成や会議ではない。それは、外部からカロリーという名のエネルギーを必死に取り込み、系内の無秩序を排出し、局所的な秩序を維持し続けるための、涙ぐましいまでの「非平衡開放系」としての生存戦略だ。つまり、組織という名の巨大な散逸構造を維持するために、我々は日々、自らの神経系をすり潰しながら負のエントロピーを供給し続けている生体パーツに過ぎない。
馬鹿みたいに。
どれだけ美辞麗句を並べ立てようとも、労働の本質は「秩序の生成」であり、物理学的にそれは「外部への熱の排出」を伴う。我々が感じる疲労やストレスは、精神的な問題ではない。それは、PCのCPUが演算処理の果てに吐き出す排熱と同じく、物理的な現象なのだ。その熱の逃げ場がないまま、我々は今日も満員電車という名の圧力釜に詰め込まれ、出荷されていく。
脳内の二郎系ラーメン
かつての労働は、もっと素朴で、胃に優しかった。例えるなら、出汁の効いたシンプルな「かけ蕎麦」のようなものだ。穴を掘る、荷物を運ぶ、ネジを締める。入力と出力の関係は線形で、身体的な疲労はあっても、精神の構造は保たれていた。汗をかけば仕事は終わった。しかし、現代の知的労働はどうだ。
それはもはや、かけ蕎麦ではない。極太の麺の上に、茹でられたもやしが山のように積まれ、ドロドロの背脂が浮き、刻みニンニクが致死量投入された「二郎系ラーメン」のごとき、情報の暴力である。
朝起きた瞬間から、スマートフォンという名の給餌器を通じて、未読メールの通知、チャットツールのメンション、SNSのどうでもいい承認欲求の残骸が、我々の脳内に雪崩れ込んでくる。これら一つひとつが、脳という脆弱な演算装置に対して「反応せよ」「判断せよ」「感情を動かせ」と迫ってくる。これは情報の摂取ではない。強制的な情報の嚥下だ。喉の奥に脂ぎったスープを無理やり流し込まれ、胃壁が悲鳴を上げているのに、次から次へと「至急」というトッピングが追加されていく。
スプレッドシートの無限に続く灰色のセルを見つめているとき、我々の脳内では神経伝達物質が枯渇し、シナプスが焦げ付くような異臭を放ち始めている。それなのに、現代人は「どの絵文字で上司に返信すべきか」といった、宇宙の進化において全く無価値で、かつ正解のない微細な判断にまで、貴重な自由エネルギーを浪費している。マルチタスクなどという幻想は、口の中に餃子とラーメンとチャーハンを同時に詰め込んで咀嚼しようとするようなものだ。味わうことなどできるはずがない。ただ、消化不良を起こして吐き気を催すだけだ。
なんだこれ。
バッテリーの死と高級な松葉杖
この「意志決定コスト」の増大は、物理学的に見れば、系の過熱だ。エンジンの冷却が追いつかず、金属疲労を起こして煙を上げている状態と言ってもいい。我々の前頭葉というデバイスは、新品の時は良かったかもしれないが、今や数年も使い倒して充電機能が死んだ、型落ちの中古スマホのバッテリーと同じだ。朝、満タンまで充電したつもりでも、通勤電車で消耗し、午前中の無意味な定例会議で消耗し、昼過ぎにはもう残量が20%を切っている。そこからは省電力モードで、画面を暗くして誤魔化しながら定時まで這いつくばるしかない。
それなのに、世の中はさらに残酷な要求を突きつけてくる。「生産性を上げろ」「自己研鑽しろ」。そして、その解決策として提示されるのが、滑稽なまでの「道具への依存」だ。
例えば、腰椎が悲鳴を上げ、脊髄が重力に負けて液体になって溶け出すのを防ぐために、我々は数十万もする高機能なオフィスチェアに縋り付く。メッシュ素材がどうだの、ランバーサポートがどうだのと講釈を垂れるが、要するにそれは、労働という拷問に耐えうるように肉体を固定するための、高級な拘束具に過ぎない。
あるいは、脳の覚醒レベルを維持するためだけに、焦げた泥水のような缶コーヒーを卒業し、産地と酸味に異常に拘泥した豆の汁を啜る。カフェインという刺激物で無理やり中枢神経を叩き起こし、震える手でキーボードを叩くその姿は、覚醒を維持できないジャンキーと何が違うというのか。物理的な制約を、金で買ったアイテムで突破しようとするその様は、オーバーヒートしたPCにUSB扇風機を当てて「これで大丈夫」と自分に言い聞かせているような、涙ぐましいまでの無意味さを孕んでいる。
思考の安楽死
結局のところ、我々が「やりがい」や「達成感」と呼んでいるものは、神経科学的な視点から解体すれば、単なる報酬系回路のバグに過ぎない。秩序を構築した際に一過性のドーパミンが放出されるのは、生存に有利な環境を整えたことに対する進化上の「餌」だった。しかし、現代社会という異常環境下において、この餌は我々を過労死へと誘う猛毒と化している。
ここで登場するのが、最近流行りの「自動生成を行う黒い箱」、つまり思考の代行アルゴリズムである。人間が一生懸命に脂汗を流してひねり出していた「メールの文面」や「議事録の要約」といった高エントロピーな作業を、シリコンの基盤の上で処理させる。これを「人間の仕事が奪われる」と嘆く輩もいるが、認識が甘い。
これは奪われているのではない。「介護」されているのだ。
自律的なプログラムが我々の代わりに文字を吐き出し、最適な解を提示するとき、我々の脳内の自由エネルギーは最小化される。それは、極寒の夜にようやく暖かい毛布にくるまり、意識を手放すときの、あの物理的な安楽死に近い。「自分で考えること」こそが人間らしさだ、などという曖昧な概念を振りかざして抵抗する者もいるが、彼らは気づいていない。意志を持つこと自体が、物理学的には極めてコストの高い、不自然な「励起状態」であり、高級な自傷行為であることを。
そうして思考を放棄した我々に残されるのは、指先の感覚だけだ。最近では、打鍵感の心地よさ「だけ」を求めて、数万円もする静電容量無接点方式のキーボードを買い求める者が後を絶たない。画面上の文章はアルゴリズムが勝手に生成しているにもかかわらず、指先に伝わる「スコスコ」という無接点の虚無の快感に浸り、あたかも自分が何か高尚なものを創造しているかのような錯覚に陥る。それは、脳死状態の患者が見る幸福な夢のようなものだ。
情報の絶対零度
労働が非平衡熱力学的なプロセスである以上、我々は常に外部へ「熱」を排出し続けなければならない。その熱が、胃潰瘍や不眠といったストレスとして肉体を内側から蝕むのか、それとも巨大なサーバーファームのファンが回る物理的な排熱として処理されるのか。
答えは明白だ。我々は、自らの意志という重荷を下ろし、思考停止という名のシステムの定常状態に身を委ねるべきなのだ。すべての意志決定が自動化され、予測誤差がゼロに収束した世界。そこにあるのは「情報の絶対零度」などという美しい静寂ではない。ただの、ぬるま湯のような快適な無能の海だ。
帰りたくなってきた。
居酒屋のテレビでは、どこかのIT企業が「人間の創造性を加速させる」などという、噴飯もののスローガンを掲げている。加速させた先にあるのは、ただの熱死だということも知らずに。冷え切った枝豆を口に運びながら、私は隣の席で必死にノートPCを叩く若者を眺める。彼の指先が刻むリズムは、刻一刻と増大する宇宙のエントロピーに対し、ささやかな、しかし決定的に無力な抵抗の音だ。

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