幾何学的徒労

昨今の「公共性」などという言葉は、ドブ川に浮いた油の膜のようなものだ。極彩色の光を反射して一見すると複雑な模様を描いているが、その実態は生活排水と汚物が混じり合った粘液に過ぎない。個人の内面に巣食う空虚が寄り集まったところで、それは巨大な空虚になるだけであり、そこに「社会」などという実体を見出そうとするのは、パチンコ台の回転する液晶画面に神の啓示を読み取ろうとする中毒者の妄執となんら変わりがない。

我々が「社会的意思決定」と呼んでいるあの騒々しい儀式――選挙期間の連呼、会議室での不毛なマウント合戦、SNSでの瞬間湯沸かし器のような炎上――は、情報幾何学の視点から見れば、単なる「統計多様体」上のふらついた運動に過ぎない。しかし、その運動はもはやブラウン運動のような自然な無秩序ですらなく、何者かによって意図的に歪められた空間を転げ落ちるだけの、滑稽な落下運動だ。

泥沼の計量

「みんなで決めよう」などという吐き気のするスローガンが、いかにしてこの世界を不毛にしているか。それを測る物差しが「フィッシャー情報量」だなどと宣うのは、あまりに気取った言い草だ。要するにそれは、スーパーのレジで割り込みをされた時に、どれほど血圧が上がるかという「苛立ちの感度」に過ぎない。ある政策変数を少し動かしたとき、人々の反応分布がどれほど敏感に変化するか。その感度こそが、多様体におけるリーマン計量、すなわち我々の間の「距離」を決定する。

かつての議論というものには、茹ですぎて伸び切った立ち食い蕎麦のような、救いようのない鈍重さがあった。出汁の匂いも判別できないような薄汚い店で、一円単位の小銭を数えるような、気が遠くなるほどの時間の浪費。丼の底が見えないほど濁った汁をすするように、結論が出るまでには長い咀嚼が必要だった。しかし、そこには確かに「物理的な抵抗」があった。対立する意見との間には、冬の朝に冷えた床を裸足で歩くような、確かな痛みを伴う距離が横たわっていたのだ。

今の意思決定空間はどうか。情報の過密によって、空間そのものが朝のラッシュ時の満員電車の車両のように圧縮されている。隣の男の不快な体臭が鼻をつき、湿った呼吸が首筋にかかるほどの至近距離。誰かの溜息ひとつで空間が歪み、わずかな不快感が瞬時に増幅されて伝播する。これは「議論」ではない。単なる「神経過敏な家畜の群れ」が、互いの体温に怯えて鳴き声を上げているだけだ。この異常な感度の高さが、我々の間の距離を、計算上は極限まで近く、心理的には無限に遠く変質させている。

なんだこれ。

醜悪な歪曲

この窮屈な檻の中に、無機質な計算機が介入してくる。最適化エンジンが世論を分析し、フィードバック・ループを回すとき、社会的意思決定多様体の「曲率」は極限まで歪められる。アルゴリズムが我々の合意形成を「最適化」するなどと言えば聞こえはいいが、やっていることは「二郎系ラーメンのニンニク・アブラ・カラメ増し」だ。刺激の強い情報をこれでもかとぶち込み、我々の乏しい理性という味覚受容体を物理的に破壊し、強引に「食べた」という錯覚と、重たい胃もたれを強要する。

計算機にとって、我々の公共性は守るべき正義ではなく、損失関数を最小化するための「処理待ちのタスク」に過ぎない。効率よく処理するために、多様体には至る所に「特異点」が作られる。そこは情報の重力があまりに強く、まともな判断力など一瞬で粉砕されるブラックホールだ。今のエコーチェンバーがまさにそれだ。自分が正しいと思い込みたいだけの無能どもが、情報の泥沼に足を取られ、出口のない円環をぐるぐると回り続けている。

この歪んだ空間では、最短距離が直進ではなく、もっとも「極端な」曲線を描くようになる。真ん中を歩こうとする者ほど、空間の曲率によって崖下に突き落とされる。最短距離で正解に辿り着こうとするほど、最も極端で、最も声の大きい、最も醜悪な曲線を描かされることになる。ニンニクとアブラにまみれた情報の残飯を、誰もが「これが民意だ」と信じ込んで貪り食っている姿は、正視に耐えない喜劇だ。

馬鹿みたいに。

物理的な摩耗

結局のところ、公共性への参画などというものは、精神のバッテリーを無駄に放電し続けるだけの、救いのない苦役だ。スマホのバッテリーが、充電と放電を繰り返すたびにリチウムイオンの移動効率を落とし、やがて膨張して使い物にならなくなるように、我々の社会性もまた、合意形成という名の摩擦熱で焼き切れていく。

人々は、この摩耗を「疲れ」という感傷的な言葉で装飾しようとするが、それは厳密には熱力学的なエントロピーの増大だ。もはや回復不可能な、情報の崩壊。この崩壊から逃れるために、哀れな中産階級は、目に見える「物理的な快適さ」に縋り付く。

私の知人もそうだ。日頃は公共だの正義だのと高説を垂れ流しているくせに、その実、自らの脆弱な腰椎を保護するためだけに、30万円もする人間工学の結晶を嬉々として購入していた。背骨のカーブを理想的に保つメッシュ素材だか何だか知らないが、ただ座るだけの道具に中古の軽自動車が買えるほどの金を注ぎ込む、その滑稽さ。自分の体重すら支えきれない貧弱な肉体を、高価な樹脂と布の塊で甘やかし、その特等席からSNSで他人に石を投げている。座れば知性が向上するとでも思っているのだろうか。その姿こそ、情報幾何学的に解体されるべき「認知の歪み」の極致と言えるだろう。

やってられない。

公共性という幻想を維持するために、我々はどれほどの金をドブに捨て、どれほどのエネルギーを浪費し続けるのか。AIが弾き出した「最適解」という名の、無味乾燥な「平均的な不幸」に向かって、我々は歪んだ多様体を転げ落ちていく。その先に待っているのは、全員が同じ顔で絶望し、しかし誰も何も感じていない、情報の絶対零度だ。

さて、グラスが空だ。この泥沼から一時的に脱出するには、アルコールで脳の神経回路を物理的に切断するほかない。教授、もう一杯。次は、もう少し現実的な話、例えば「いかにして無駄な税金を着服するか」についてでも話そう。

もう、帰らせろ。

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