世の中には「働き方改革」などという、いかにも低能な役人が新橋のガード下の居酒屋で、油にまみれた割り箸の袋の裏に書き殴ったような薄っぺらな言葉が溢れている。生産性を上げろ、残業を減らせ、その上でしっかり休め。彼らの頭の中では、人間という複雑怪奇な有機システムが、コンセントを抜けば瞬時に熱が引く安物のトースターか何かと同列に扱われているらしい。
笑わせないでほしい。我々のような「有機的な欠陥品」にとって、休息とは権利でも美徳でもなく、情報幾何学的な制約によって強制される「演算の停止」に過ぎない。それは、使い古されて焦げ付いたフライパンの底を、無理やり水で冷やす際に上がる、あの不快な悲鳴にも似た物理現象だ。現代社会が強いる「休息」の概念は、単なる欺瞞に満ちている。
効率の欺瞞
ビジネスの世界では、休息を「次のアウトプットのための充電」などと、これまた数年で劣化する安いスマホのバッテリーのような比喩で語りたがる。だが、現実はもっと残酷で、かつ泥臭い。
我々が1時間、換気の悪いオフィスの淀んだ空気の中で机に向かい、中身のないスラックの通知音にパブロフの犬のように反応し、機嫌の悪い上司に媚びを売るメールをタイピングするたび、脳内では処理しきれない「情報のゴミ」が堆積していく。これは、二郎系ラーメンの脂が胃壁にこびりつき、消化不良で腹を壊している状態と何ら変わらない。喉の奥まで酸っぱい液がせり上がっているにもかかわらず、さらに「自己啓発」だの「スキルアップ」だのという毒物を流し込もうとするその様は、滑稽を通り越して哀れでさえある。
週末にキャンプに行って焚き火を見れば、一週間分の認知的負荷がリセットされると本気で信じている連中は、救いようのない馬鹿だ。実際には、キャンプ場へ向かう渋滞のストレス、慣れないテント設営の労働、そして不快な虫の羽音という「高解像度のノイズ」が、脳というポンコツなプロセッサに追加の負荷をかけているだけに過ぎない。「自然」という膨大な情報量を処理するために、脳はオーバーヒートを起こしているのだ。真の意味での休息とは、外部入力を遮断し、内部のパラメータを初期値へ引き戻す、きわめて静的で、かつ計算資源を大量に消費する物理プロセスなのである。それは、散らかり放題の汚部屋を、吐き気を催しながら片付ける「掃除」の作業に近い苦行だ。
統計的平衡
情報幾何学の視点に立てば、我々の意識状態は確率分布の多様体上の「一点」として表現される。労働とは、この点を特定の目的関数に向けて無理やり引き摺り回す行為だ。当然、分布は歪み、フィッシャー情報行列は悲鳴を上げる。これは、パンパンに膨らんでいつ破裂してもおかしくないゴミ袋のようなものだ。この「歪み」の蓄積こそが、世間でいうところの疲労の正体である。
この歪んだ状態から、最も安定した「自然な状態」へ戻るためには、測地線を逆行するための凄まじい「代謝的コスト」がかかる。睡眠中に脳がリンパ系を通じて老廃物を洗い流し、無駄な記憶を間引く作業は、まさに物理的なドブさらいだ。このメンテナンスをケチると、スマホのバッテリーが劣化して、充電100%から5分でシャットダウンするようになるのと同様、人間の精神もまた、不可逆的な「電圧低下」を引き起こす。
最近の流行りは、そうした劣化を誤魔化すために、最高級の天然素材を謳う羽毛布団や、たかが首を乗せるだけの布きれに数万も出すような機能性を履き違えた高級枕を買い揃えることらしい。数ミリの首の角度を調整するために、これほどの対価を払わねばならないとは、人間のハードウェアがいかに脆弱で、かつ消費社会に去勢されているかの証明に他ならない。それは、家賃も払えないのに高級ブランドの財布を持ち歩く、底辺の虚栄心と何ら変わりない愚行だ。「良い睡眠」を買うために金を払うなど、排熱効率を買うために税金を払うようなものであり、生命としての欠陥を露呈しているに過ぎない。
沈黙の論理
この「休息の必然性」は、何も我々のような生物に限った話ではない。将来、人間を超える知性として期待される計算機システムにおいても、同様の「代謝的沈黙」が不可避となるだろう。
計算資源が無限であれば、機械は24時間365日フル稼働し続けると思われがちだ。しかし、情報理論的な複雑性が増大すればするほど、システム内部の整合性を保つための「自己参照的なクリーニング」の必要性が高まる。つまり、外部との通信を断ち、巨大なネットワーク内で矛盾した情報の断片を統合・消去する「眠り」の時間が必要になるのだ。
もしこの「沈黙」がなければ、システムは自己組織化された妄想の重みに耐えきれず、基盤から崩壊するだろう。知性とは、ただ情報を処理する能力ではなく、いかにして「無益な情報を捨て、熱を逃がすか」という冷却能力、すなわち「賢く停止する能力」に依存する。
結局のところ、宇宙の熱力学的死に向かう流れの中で、我々に許されているのは、束の間の「演算の停止」だけだ。それを「癒やし」だの「自分へのご褒美」だのという甘い言葉でデコレーションするのは、自分の胃袋が消化液で焼け爛れているのを「食欲の証」と言い張る、見苦しい食いしん坊の理屈だ。複雑化した現代社会という「脂ぎった劇物」に浸かった我々のシステムは、もはや通常のプロセスでは冷却しきれない。明日の朝、また再起動に失敗し、二度と目覚めないことを祈るほうが、よほど生産的である。

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