熱力学的徒労
前回の話、覚えているか。我々がいかにして「時短」という名の宗教に加担し、自らの首を絞めるロープをせっせと編み上げてきたかという、あの滑稽極まりない話だ。メールの返信を自動化し、会議時間を半分に削り、ショートカットキーを指が痙攣するほど叩き込んで、そうして浮かせた数分間で、貴様はいったい何をした?
どうせ、一円の得にもならないSNSのタイムラインを貪り、脳髄をショート動画のドーパミン漬けにし、高出力だが無駄に重いモバイルバッテリーから、自分の魂の残量を切り売りするように電力を吸い取っていただけだろう。現代の労働とは、もはや実体のある価値の創造などではない。それは、膨大な情報の掃き溜めに設定された座標の間を、いかに「要領よく」、あるいは「狡賢く」這いずるかという、純粋に幾何学的な運動に変質してしまった。
組織という名の巨大な構造体の中で、我々は「仕事ができる」という幻想を、フィッシャー情報行列の固有値の並びのように処理しているに過ぎない。熱力学的に見れば、我々の活動は宇宙のエントロピーを増大させるだけの、極めて効率の悪いヒーターだ。馬鹿みたいに。
歪んだ多様体
事業を「タスク多様体」などと呼ぶのは、ドブ川を「都市の水質資源」と呼ぶような欺瞞に満ちている。だが、構造を理解するためにあえてその言葉を使おう。我々が日々直面している「業務」とは、ユークリッド空間のように平坦で素直なものではない。それは、営業部長の理不尽な罵声、企画書の致命的な誤植、法務部の陰湿なスタンプラリー、そしてクライアントの気まぐれという名の特異点によって、複雑怪奇にねじれ、歪曲したリーマン多様体である。
この歪んだ時空において、真面目に直進しようとする者は馬鹿を見る。直進すれば、必ず「責任」という名の重力崩壊に巻き込まれるからだ。我々ビジネスマンと呼ばれる種族は、この泥沼の中で、いかにして他人の足を引っ張り、面倒な案件を隣の部署へドリフトさせ、定時という事象の地平線へ逃げ切るかという「最短測地線」を血眼になって探求する、卑屈な旅人に過ぎない。これを世間では「調整力」や「ポリティカル・スキル」と呼んで称賛するが、数学的に言えば、単に計量テンソルの歪みを利用してサボっているだけだ。
かつて「職人の勘」や「長年の経験」として神格化されていた代物も、この文脈で解剖すれば実に即物的な正体が露見する。それは、高次元パラメータ空間における「不快の勾配」を足裏で感知する、ただの生存本能だ。立ち食いそば屋の親父が、湿度の変化に合わせて茹で時間を1秒単位で調整するのは、麺への愛などではない。客の回転率を極限まで上げ、一円でも多くぼったくり価格のコーヒーに消えるはずの小銭を自分のレジへ毟り取るために最適化された、脊髄反射のアルゴリズムだ。二郎系ラーメンの店主が客の体格を見てアブラの量を微調整するのも、客の健康を気遣っているわけではない。食後の嘔吐による清掃コストという「損失関数」を最小化するための、無意識の確率的勾配降下法に過ぎない。
それを「匠の技」だの「魂」だのと呼んでありがたがるのは、スマホの処理落ちを「端末の溜息」と解釈するような、あまりにナイーブで幼稚な擬人化だ。なんだこれ。
平坦化する地獄
そこに、貴様らが崇める「生成AI」という名の、知性のシュレッダーが放り込まれた。奴らがやっていることは、「創造」ではない。我々が必死に解釈し、顔色を窺い、忖度してきた「タスク多様体」の複雑な曲率を、凄まじい計算資源という暴力的なプレス機で、完全に平坦に押し潰す作業だ。
これまで、個人の直感的なスキルとして形式知化を拒んできた「コツ」や「阿吽の呼吸」、あるいは「行間を読む」といったブラックボックスは、AIとの共進化という美名の下で行われる無慈悲な数式化によって解体される。多様体の急峻な崖はなだらかな坂道になり、複雑な迷路はただの直線になる。誰もが最短距離を歩めるようになる世界。それは一見すると労働の民主化、あるいは解放に見えるかもしれない。だがその実態は、個人の「ズレ」や「ノイズ」が生んでいた価値を抹殺し、全員を交換可能な均質の「部品」へと作り替える、冷徹なホモジナイズ(均質化)のプロセスだ。
誰でも最短距離で目的地に着けるなら、そこに「歩き方の美学」など不要だろう。わざわざ数十万もする高級な革の手帳に、万年筆で「本質的な問い」などと書き殴っている姿は、完全に舗装されたアスファルトの道路を、登山用のピッケルとアイゼンを装備して歩いている狂人のそれだ。その手帳の革の厚みが、貴様の薄っぺらい思考を保護してくれるわけではない。そこに何万も払う感性が、私には理解できない。その金で、もっとマシな酒でも飲め。
報酬系の壊死
労働の最短測地線が計算可能になり、すべてが「答え合わせ」の作業に成り下がったとき、人間が抱く「達成感」という名のバグはどこへ行くのか。神経科学的に言えば、達成感とは予測と現実の誤差(予測誤差)が減少した際に放出されるドーパミンの報酬系に過ぎない。AIが予測の精度を極限まで高め、労働が単なる「正解の確認」へと堕したとき、我々の脳はもはや報酬を受け取る正当な理由を失う。
組織の公共性もまた、この情報幾何学的な平坦化によって溶解する。組織とは本来、個人のスキルの「欠落」や「歪み」を噛み合わせて回転力を生むための、いびつな歯車装置だった。凸と凹が噛み合うからこそ、組織は回っていた。だが、すべての歯車が数学的に正しい真円へと加工されれば、もはや噛み合う必要すらなくなる。個は孤立し、摩擦係数ゼロの氷の上を、ただ座標軸に従って滑るだけの点となる。
我々が「個人の直感的スキルの形式化」などと呼んで推進しているDXだのAI活用だのは、実のところ、自分たちを「いつでも交換可能な乾電池」へと丁寧に削り上げる、セルフ・デコンストラクション(自己解体)の儀式なのだ。
帰りたい。
結局、我々はAIを鏡として、自分たちがどれほど単純な熱力学的システムであるかを突きつけられているだけだ。測地線の上を走る、劣化していくバッテリーのような存在。かつて、かけ蕎麦の出汁の香りに「宇宙」を感じたあの感傷さえ、今や高次元空間のノイズとしてフィルタリングされ、削除される。次は、このノイズを完全に消し去った後に残る、完全なる「虚無」の熱力学について話そうか。それとも、あの狂ったように高いオフィスチェアに座って、腰痛という名の「肉体の実存」を確認しながら、何の意味もない計算の終わりを待つだけの肉塊であることを称え合うか。
どちらにせよ、今夜の酒は、ひどく情報密度の低い味がする。

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