散逸の檻

 働き方改革という名の、丁寧で残酷な公開処刑が続いている。

 効率化、DX、そしてあの忌々しい「シリコンの寄生虫」による自動化。社会という巨大な集積回路の中に押し込められた私たちは、常に「より速く、より多く」を要求され続けている。しかし、どれほど最新のツールを導入し、どれほど手順を削ぎ落としたところで、机に積み上がる「タスク」という名の残飯は、昨日の生ゴミよりも鼻を突く悪臭を放ちながら増殖を続けているのが現実だ。

 処理速度が上がれば上がるほど、次の仕事が光速で後頭部を殴りつけてくる。これはいったい、何の冗談だろうか。

 結局のところ、組織における労働とは、無秩序な情報を一時的に整理しようとする絶望的な悪あがきに過ぎない。しかし、この宇宙の冷徹な熱力学法則は、私たちが洗練されたスライドを一枚作るたびに、その裏側でそれ以上の無秩序(エントロピー)を世界に撒き散らすことを要求する。貴様がメールを一本返すごとに、世界の誰かの神経は摩耗し、新たな火種が生まれ、サーバーの冷却ファンが唸りを上げる。この不条理は、単なるビジネスの課題などではない。肉体という「有機的な放熱板」に課せられた、逃れられない物理的な呪いだ。

動的平衡の欺瞞

 なぜ、仕事は終わらないのか。それはタスクというものが、片付けるべき静的な物体ではなく、エネルギーが流れ込み続けることで辛うじて維持される「地獄の構造」だからだ。

 この状況を理解するために、イリヤ・プリゴジンが提唱した「散逸構造」の概念を、もっと卑近な例で翻訳しよう。二郎系ラーメンの行列を想像してほしい。

 あの黄色い看板の下、脂ぎったスープと暴力的な麺の塊を胃袋に叩き込むために、家賃やローンの支払いに追われる男たちが、死んだ魚のような目で並んでいる。厨房からは莫大な熱気と、客の寿命を確実に削り取るようなニンニクの刺激臭が立ち昇る。床は油でヌメり、靴底が吸い付くような不快な音を立てる。あの空間は、豚骨と小麦粉という高カロリーなエネルギーが絶えず投入され、客の血糖値上昇と、店外への凄まじい排熱、そしてトイレの下水へと流れる廃棄物という形で散逸していくことで成立している「動的なカオス」だ。

 私たちの仕事も、本質的にはあのヌメった床と同じだ。

 自律的なアルゴリズムが、私たちの代わりにデータを整理し、気の利いた返信の文案を吐き出す。一見、それは私たちの負担を減らしているように見えるだろう。だが、物理学的な実態は「情報の流速」を上げているだけに過ぎない。演算機がタスクを高速で回せば回すほど、その接点にいる生身の人間には、より高頻度の意思決定と、絶え間ない通知への反応が要求される。機械が整然とした「正解」を出力するたびに、私たちの脳には、文脈の喪失や、感情的な摩耗、そして「そもそも何のために生きているのか」という、腹の足しにもならない実存的な問いが熱となって蓄積していく。

 私たちは主体的に働いているのではない。ただ、加速する情報の濁流の中で、形を保とうともがく、使い捨ての「フィルター」に成り下がっているのだ。馬鹿みたいに。

予測誤差の奴隷

 では、この熱地獄の中で、私たちの脳は何を画策しているのか。

 神経科学者カール・フリストンが提唱した「自由エネルギー原理」によれば、脳という生臭いデバイスの唯一の目的は「驚き(予測誤差)」を最小化することにある。言い換えれば、「いかにエネルギーを使わずに、明日も同じように生ゴミを食えるか」という、究極のサボり戦略である。

 脳は、外界から入ってくる刺激をいちいち真面目に処理したくない。電気代を節約したいのだ。だから、世界をモデル化し、「次はおそらくこうなるだろう」と適当な予測を立てる。その予測が当たっていれば、脳は最小限のブドウ糖消費で眠りにつける。現代の労働において、私たちがシリコンの知性に判断を丸投げするのは、この「家畜のような安寧」を求めた結果だ。

 アルゴリズムに判断を委ね、自分はただ「承認」という名のボタンを押すだけの自動改札機になれば、予測誤差は最小化される。驚きのない、平坦で、死んだような時間は、脳にとっては最も「コスパが良い」状態だ。

 しかし、ここに致命的な罠がある。脳の負担を減らそうとすればするほど、環境の複雑性は増し、予測を裏切る「ノイズ」がシステムの深部から湧き上がってくる。ディスプレイを凝視し、数字の羅列に魂を削られる時間を少しでも快適にするために、私たちはあえて視界を遮断し、座るだけで一カ月分の食費が消し飛ぶような高価な椅子を買い求める。

 二十万も三十万もするアルミとメッシュの塊に、使い古された尻を乗せて、私たちは「集中」という名の隔離を買っているのだ。人間工学に基づいた曲線が脊椎を支え、体圧を分散させると謳うそのプロダクトは、確かに快適だ。だが、考えてもみろ。椅子が高級になればなるほど、私たちが排出できる「労働」という名の熱量が増えるだけで、本質的な安らぎなどどこにもない。

 なんだこれ。私たちはただ、より効率的に加熱されるための、高級なコンロの上に座らされているだけではないか。

熱的な死

 熱力学において、真の「均衡」とは死を意味する。すべての温度が均一になり、情報の流れが止まったとき、私たちはようやくタスクから解放されるが、それは生物としての、あるいは社会的存在としての終了だ。

 つまり、私たちが「ストレスの最小化」を完全に成し遂げようとする試みは、究極的には自己消滅への願望に他ならない。

 自動化された知性が生成する無限のコンテンツと、それに対応し続ける私たちの神経系。この関係は、共生などという生易しいものではない。お互いの寿命を奪い合い、熱を撒き散らし合う「破滅のダンス」だ。

 スマホのバッテリーが、充電と放電を繰り返すたびに劣化していくように、私たちの感性も、通知に対する条件反射的な反応の中で損耗していく。かつてはもっと、道端に落ちている硬貨や、夕暮れの空の色に驚くことができたはずだ。しかし、予測誤差を最小化し続けた結果、あらゆる事象は「既読」のマークがつくのを待つだけの、退屈な記号に成り果てた。

 スマホの画面をスクロールする指の動き。そこにはもはや、人間的な意志など介在していない。ただ、電位の差に従って流れる電子のように、私たちは社会という回路を流されるだけの粒子だ。

 帰りたい。

 どこへ? おそらく、まだ熱がそれほど高くなかった、もっと非効率で、もっと予測不能だった、あのかけ蕎麦のような、素朴で冷え切った過去へと。だが、散逸構造は時間を遡ることを許さない。流入するエネルギーが増え続ける限り、私たちは熱を吐き出し続け、このカオスの一部として、高価な椅子の上で干からびていくしかないのだ。

 さて、次の通知が来た。予測誤差を埋めるために、また一つ、魂を熱に変えて放出するとしよう。

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