労働という名の布朗運動
前回の講義――いや、この安酒場での管巻きだったか。そこで私は「組織における生産性の逆説」について語ったわけだが、その時君は、まるで世界の真理に触れたような、妙に納得した顔をしていたな。その薄っぺらな理解を、今すぐ手元の冷えたおしぼりで拭い去ってくれたまえ。君たちが普段「仕事」と呼び、神棚に祀り上げているものの正体は、実のところ、湿った雑巾を絞り続けるような無意味な円運動に過ぎないのだから。
多くのビジネスマンが「タスク管理」や「マルチタスク」などという言葉を、まるで使い古されたお守りのように唱えているのを見ると、私はどうしても笑いを堪えきれなくなる。彼らが懸命にこなしているのは、実のところ「労働」などではなく、ただの不器用な空間移動だ。メールを返し、資料を作り、会議で無意味な相槌を打つ。これらは個別の事象ではなく、統計多様体という広大な空間の上に散らばった「確率分布」の点に過ぎない。
今日はもう少し解像度を上げて、この泥水に顔を突っ込むような現実を、情報幾何学というメスで解剖してやろう。ただし、解剖して出てくるのは美しい内臓ではなく、腐敗した幾何学の悪臭だけだが。
多様体の汚濁と、空腹の距離
情報幾何学の視点に立てば、あるタスクから別のタスクへ移行するという行為は、単なる気合や根性の問題ではなく、一つの確率分布から別の確率分布へとモデルを遷移させるプロセスのことだ。この遷移にかかるコストを、我々は「フィッシャー情報距離」という計量で測る。
君が「今日は集中力が続かない」とぼやくとき、それは君の精神が脆弱なのではなく、君が移動しようとしている二つのタスク間の「情報的な距離」が、脳というハードウェアの許容範囲を超えて遠すぎるだけなのだ。これを日常の解像度で翻訳すれば、真冬の駅のホームで、凍える手で小銭を探し、自販機の温かいおしるこを買おうとして「売り切れ」の赤ランプを点灯させられた時の、あの救いようのない絶望の距離と等価だ。あるいは、給料日前の空腹時に、隣の席から漂ってくるカップ麺の暴力的な匂いと、自分の手元にある湿気った煎餅の間の、埋めようのない格差のことだ。
例えば、立ち食いそば屋で「かけ蕎麦」を注文する行為を考えてみよう。そこには最適化された動線があり、客も店員も一つの確率分布の中に美しく収束している。しかし、もしそのカウンターで突然「二郎系のコール(ヤサイニンニクマシマシ)」を叫ぶ者が現れたらどうなるか。空間の曲率は一気に跳ね上がり、周囲の客の計算資源は「理解不能」というエラーで埋め尽くされるだろう。
ビジネスの現場で起きているのは、まさにこれだ。「クリエイティブな企画立案」という広がりを持った分布から、一転して「経費精算の領収書入力」という極めてエントロピーの低い、針の穴を通すような分布へ遷移しようとする。この時、我々の意識という点(ポイント)は、労働空間の激しい「曲率」に晒されることになる。
この距離が遠ければ遠いほど、君の「やる気」という名の安っぽいバッテリーは急速に放電され、最後には膨張して、剥き出しの回路を露呈させることになる。スマホのバッテリー劣化を嘆く者は多いが、自分自身の脳という電池が、日々の文脈遷移(コンテキスト・スイッチング)という過放電によって、どれほど不格好に膨張してカバーが閉まらなくなっているかには無頓着だ。
馬鹿みたいに。
歪んだ空間と、矯正された背骨
さらに悪いことに、組織という空間は、物理法則を無視して歪んでいる。情報幾何学において、空間が曲がっていれば、二点間の最短距離は直線ではなく「測地線」となる。だが、悲しいかな。日本の組織という空間は、上司の機嫌や、前例踏襲という名の重力異常によって、グニャグニャに歪みきっている。
本来、ある目的のために最短距離を走るべき人間が、なぜこれほどまでに疲弊するのか。それは、組織の至るところに「承認」という名のブラックホールが存在するからだ。ハンコ一つもらうために、なぜわざわざ隣のビルの役員室まで、すり足で歩かなければならない? なぜ、結論の出ない会議という名の「時間の特異点」に、貴重な余暇を吸い取られなければならない?
この歪んだ空間で、実直な人間ほど「直線」で進もうとして見えない壁に激突し、精神的な熱力学的死、すなわち燃え尽き症候群を迎えるわけだ。
君のような真面目な労働者の背骨は、この歪んだ組織の圧力によって物理的に曲げられ、軋みを上げている。だからこそ、多くの者は自宅に帰った後、[成功者が自尊心を保つための重厚な革張りの玉座](https://www.hermanmiller.com/ja_jp/products/seating/office-chairs/aeron-chairs/)に身を委ねなければ、もはや原型を保つことすらできないのだ。椅子一脚に数十万も投じるその執念は、快適さを求めているのではない。歪みきった空間で破壊された自己の形状を、金で買った鋳型にはめ込んで矯正しようとする、悲痛な叫びに他ならない。
なんだこれ。
さらに言えば、オフィスに充満する「効率化」という名の騒音もまた、空間を歪める要因だ。隣のデスクから聞こえるキーボードを叩く暴力的な打鍵音、意味のない世間話、そして誰かの啜る鼻水の音。それら全てのノイズから逃れるために、我々は[文明の盾としてのノイズキャンセリングヘッドホン](https://www.sony.jp/headphone/products/WH-1000XM5/)を装着し、耳を塞いで殻に閉じこもる。空間を平坦にする努力を放棄し、ただ耳を塞いで、歪んだ世界が通り過ぎるのを待つだけ。これが「現代の知的労働」の正体だ。
確率の檻と熱死
最近では、機械化された人事査定アルゴリズムを使って個人のスキルを計量化し、最適な測地線を見つけようという試みが盛んだが、これもまた滑稽な話だ。彼らは「個体別確率分布」などという言葉を弄び、あたかも人間が数式で制御可能な関数であるかのように振る舞っている。
しかし、そこで提示される「最適解」から、君自身の意思は完全に排除されている。君は、冷徹な自動算定機によって、最も摩耗の少ないルートを走るようプログラムされる。それは「成長」ではなく、ただの「劣化の最適化」だ。かつて持っていた、自分だけの「ゆらぎ」――例えば、雨の日に窓の外を眺めて一時間を無駄にするような、贅沢なエントロピーの増大――は、すべて「無駄」として削ぎ落とされる。
結局、我々は「自己実現」や「成長」という甘美な言葉でコーティングされた、自分という統計モデルを無理やり環境にフィッティングさせる「過学習」のプロセスを生きているに過ぎない。周囲に適合し、摩擦を減らし、つるつるとした無機質な球体になっていく。
そうして、ついには自分自身がどの確率分布に属していたのかさえ忘れてしまう。今、この居酒屋で安酒を煽りながらクダを巻いている私と、明日の朝、講義室で涼しい顔をして数理モデルを説く私の間に、一体どれほどの「情報的な差異」が残っているというのか。もはや、カルバック・ライブラー情報量を計算するまでもない。その差異が無視できるほど小さいことを祈るしかない。
私は、どこにでもいる、ただの壊れた観測器だ。
帰らせろ。
労働空間の曲率は、この瞬間も、無能な経営層の思いつき一つで急激に増大している。情報は複雑化し、遷移すべきタスクの密度はブラックホールのごとく高まっていく。その中で、我々に残された道は、測地線を見失わずに走り続けるか、あるいは空間そのものが崩壊するのを静かに待つか、そのどちらかだ。
さて、そろそろ次の酒を頼むとしよう。この店員の「注文を取る」という確率分布に、私の「ホッピー中のお代わり」という情報を、いかに低コストで流し込めるか。これもまた、一つの残酷な測地線探索と言える。
もっとも、この安酒で私のニューラルネットワークがどれほど損なわれているかを考えれば、もはや計算するだけ無駄というものだが。

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