残飯

徒労のスープ

「社会のために」「次世代のために」。

駅前の雑居ビルに入居する安居酒屋の、油でベたつくカウンターで、使い古されたおしぼりを執拗に丸めながら、立派な肩書きを持つ御仁たちがそう宣うのを耳にする。そのたびに、私は自分のグラスに注がれた安物のハイボールの中で、不透明な氷が溶けていく様をじっと眺めることになる。彼らの口から溢れ出る「公共性」などという名のスープは、あまりに多すぎる利害関係者の、脂ぎった手垢と打算という出汁で薄められすぎて、もはや白湯と変わらない。あるいは、下水に近い何かなのかもしれない。

労働の本質とは、本来、非常に無機質で、かつ残忍な「奪い合い」の調整作業に過ぎない。美辞麗句でコーティングされた企業理念を剥がせば、そこにあるのは、限られたパイを誰が一番多く咀嚼し、誰がその食べかすを処理するかという、極めて動物的な生存競争だけだ。

希釈

我々が日々「仕事」と呼び、神聖視すらしている営みは、社会という巨大なゴミ溜めの中で、自分の取り分をわずかに増やそうとする醜い試みである。事業の公共性とは、その醜悪な奪い合いが、多くの個体にとって「見て見ぬふりができる」程度の悪臭に収まっている状態を指すに過ぎない。

だが、現代の組織における労働は、もはや味の判別がつかない「二郎系ラーメン」のトッピング競争に成り下がっている。野菜マシ、ニンニク、アブラ、カラメ。本質的な価値(スープ)がどこにあるのかも見えないほどに、コンプライアンスだの、承認フローだの、SDGsだのといった装飾が積み上げられ、丼からはみ出している。労働者はその過剰なトッピングの重みで自壊していく。

オフィスを見渡してみればいい。澱んだ空気の中で、死んだ魚のような目をした若者が、一円の利益も生まないスライドのフォントサイズを微調整することに命を削っている。窓の外は暗く、深夜の点滅する蛍光灯の下で、彼らは冷え切ったコンビニの揚げ物を口に運び、胃袋に流し込む。結局、何を食べさせられているのか、その過剰な塩分が誰の血圧を上げているのか、誰も証明できていない。

馬鹿みたいに。

スマホのバッテリーが80%を切っただけで、まるで余命宣告を受けたかのように焦燥感に駆られる現代人が、自分の人生という有限かつ不可逆なリソースが、誰かの保身のために開催される不毛な定例会議によって15分単位で削り取られている事実には驚くほど無頓着だ。それは滑稽という言葉すら生温い。効率化を謳いながら、その実、我々はただ、組織という名の巨大な内燃機関の中で、自身の精神を燃料として焚べ続け、無意味な熱を放射しているだけなのだ。その熱は、誰の肌も温めることなく、ただオフィスの室温を上げ、空調の負荷を高めるだけに終わる。

曲率

かつて一部の学者が、世界を美しく記述しようと数式を持ち出した。だが、そんな高尚な野心は泥の中に捨てろ。労働者が所属する「組織」は、幾何学的な美しさなど微塵もない、単なる欲望と嫉妬の集積体だ。そこにあるのは、目的地への最短経路の計算ではなく、いかにして責任という名の泥を他人に塗りたくり、手柄という名の果実を掠め取るかという、ドロドロとした力学だけである。

ここでの「価値」とは、現在の地獄から、少しでもマシな地獄への移動距離でしかない。優秀な経営者や、昨今の血も涙もない解雇アルゴリズムが目指しているのは、この「いかに人間を安く使い潰し、廃棄コストを最小化するか」という一点における最短経路の算出だ。

しかし、人間という「物理的な制約」を内包したシステムでは、この計算が激しく歪む。不眠不休で働けば胃に穴が開き、罵倒され続ければ脳の回路が焼き切れる。腰椎は悲鳴を上げ、眼球は乾燥し、精神は摩耗する。この生物学的な欠陥こそが、組織という空間の曲率――すなわち、運営コストを跳ね上げる正体だ。

最近のオフィス環境も、その歪みを隠蔽するための大掛かりな舞台装置に過ぎない。椎間板が悲鳴を上げるたびに、我々はすがるような思いで、座っているだけで腰痛が治るとか、生産性が劇的に向上するとか嘯くアーロンチェアのメッシュに沈み込むが、その高額な座面が吸い取るのは、我々の疲労ではなく、中古の軽自動車が買えるほどのボーナスと、満たされない承認欲求だけだ。椅子一脚に数十万を投じることで、労働という名の強制労働に、無理やり「高貴な知的作業」という化粧を施そうとするその必死さには、涙ぐましいものがある。どれほど人間工学に基づいた高価な玉座に尻を預けようとも、そこで行われる計算が、上司の機嫌を伺うための謝罪メールの作成であれば、算出される付加価値はゴミ箱の底に沈む。

帰りたい。

感情は、意思決定を鈍らせる不純物だ。腹が減った、眠い、あの野郎を殴りたい、家に帰って泥のように眠りたい。そんな当たり前の生理現象が、組織というマシンの歯車に挟まり、不快な摩擦音を立て続ける。我々の「情熱」など、系の温度を無駄に上げ、冷房効率を悪くするだけの排熱でしかない。

蒸発

最終的に、すべての判断を「感情を持たないプログラム」が下すようになった時、労働は真の極致に達するだろう。彼ら――シリコンでできた新しい管理者たちは、深夜の残業中にカップ麺をすする虚しさを知らない。リボ払いの残高に怯えることもない。ただ、最も効率的に、静かに、我々を不要なパーツとして弾き出し、最適化された空間を作り上げるだけだ。

そこには、もはや「人間らしさ」という名の不潔なノイズは存在しない。労働は完全に自動化された数字の受け渡しとなり、公共性は最小限のコストで暴動を防ぐための「最低限の飼料」へと還元される。

それは、駅の立ち食い蕎麦屋で掻き込む「かけ蕎麦」のような世界だ。過剰なトッピングを剥ぎ取り、味わう暇もなく、ただ胃袋を満たすためだけに存在し、数分後には誰が食べたかも忘れ去られる。機能美と言えば聞こえはいいが、そこには「個」としての尊厳など欠片もない。しかし、その時、我々は自分の名前を、どうやって思い出すつもりだろうか。所属組織のID以外に、自分を証明する術を持たない我々が。

最適化の果てに待っているのは、存在の蒸発だ。すべてが計算通りに進み、一ミリの無駄も許されない社会。そこでは、我々のこの「ボヤキ」すらも、あらかじめ予測された統計的なゴミとして、自動的にフィルタリングされ、デジタルの焼却炉へと送られる。

さて、このハイボールの氷が完全に溶け、グラスの表面に結露した水滴がカウンターを濡らす頃には、私の存在など、この薄暗い店の一部として同化し、誰の記憶にも残らないシミになっていることだろう。計算済みの絶望に向かって、我々は今日も、一円にもならない愚痴を吐き出し、消費されるだけの時間を浪費し続ける。

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