散逸構造

「チームビルディング」だとか「組織の連帯」だとか、意識の高い連中が二言目には口にするあの手触りの悪い言葉を聞くたびに、私は二日酔いの朝に嗅ぐ安物の洗剤のような、鼻の奥がツンとする生理的な吐き気を覚える。連中が「ビジョン」と称してホワイトボードに書き殴るキラキラした絵空事は、実のところ、ただの熱力学的な延命措置に過ぎない。なぜ誰も、自分が「ゴミを燃やして熱を得るための、使い捨ての燃料」であることを認めようとしないのか。

組織とは、放っておけば無秩序へ向かうエントロピーの増大に抗い続ける、極めて不自然で、かつ悲哀に満ちた構造体だ。かつてイリヤ・プリゴジンが提唱した「散逸構造論」を引くまでもなく、我々が「会社」と呼んでいるあの薄暗い箱は、外部から資本と労働力という高純度のエネルギーを絶え間なく注入し、同時に「成果物」と「精神を摩耗させた人間」という廃棄物を垂れ流し続けることでしか、その定常状態を維持できない。

それは、茹で上がった麺がのび切る前に、脂ぎったスープを無理やり継ぎ足し続ける二郎系ラーメンの丼の中のようなものだ。あるいは、経年劣化で1時間も持たなくなったiPhoneのバッテリーを、モバイルバッテリーに繋ぎっぱなしで無理やり動かしているあの痛々しい光景。あそこに「やりがい」や「夢」といった情緒的な彩りを見出そうとするのは、単なる神経系のバグ、あるいは生存本能がもたらす認知の歪みでしかない。我々はただ、溢れ出す脂と熱を「成長」と呼び変えて、必死に飲み込んでいるだけなのだ。

散逸

非平衡状態において、ある一定の閾値を超えたエネルギーが流入したとき、システムは突如として新しい秩序へと「相転移」を起こす。ベンチャー企業が急速に拡大し、昨日までの「家族的な一体感」が「冷徹な官僚組織」へと変貌を遂げるあの瞬間を、世間は成功の証として祝う。だが数理的に見れば、それは単にシステムが複雑化し、情報の散逸速度を早めるための、新たな排熱ダクトが設置されただけに過ぎない。

かつての創業期が、出汁の効いたシンプルな「かけ蕎麦」だったとすれば、成長した組織は背脂とニンニクが過剰にトッピングされた、あの禍々しい山だ。食えば腹は膨れるが、そこにあるのは美学ではなく、ただの過剰な代謝の維持、あるいは慢性的な胃もたれだ。組織が大きくなればなるほど、その構成員一人ひとりが負担する「無意味な調整」という摩擦熱は増大する。

人間は、この物理的な必然を「情熱」や「社風」という言葉でコーティングしたがる。だが、実態はもっと残酷だ。我々が会議室で交わす無益な議論や、夜中まで続くパワポの修正作業は、システム内に蓄積した過剰な情報エントロピーを外部へ排出するための排熱作業に他ならない。あの無駄に高いハーマンミラーのアーロンチェアに腰を沈め、腰椎の崩壊を必死に防ぎながらキーボードを叩く姿は、熱力学的な死(サーマル・デス)を先延ばしにするための、滑稽な抵抗のダンスなのだ。10回払いのローンで買った椅子が、自分の価値を証明してくれると信じ込んでいるその精神構造こそが、最もエントロピーが高い。

根茎

そこで、ジル・ドゥルーズの言う「リゾーム(根茎)」という概念が、ある種の逃げ道として持ち出される。縦割り組織という「樹状構造(ツリー)」が、自重に耐えかねてポッキリと折れる一方で、中心も末端もなく横へ横へと無秩序に広がるリゾーム的な組織こそが、現代の生存戦略だともてはやされている。だが、勘違いしてはいけない。リゾームとは、自由で開かれたネットワークなどという甘い幻想ではない。

それは、どこを切っても再生し、どこにでも侵食し、そして何より「どこにも責任の所在がない」、一種の「癌細胞」のような動的平衡だ。リゾーム的な組織において、個人は自律的な主体ではない。情報のノードを中継し、上から流れてくるノイズを下に流すだけの、単なる「汚水管」に成り下がる。誰が決定したのか不明なままプロジェクトが進み、失敗の責任はネットワークの網目に霧散する。この「無責任の連鎖」こそが、リゾームの正体だ。

連中が「アジャイル」だの「ティール」だのと騒ぎ立てるその実体は、単に管理責任を分散し、システムの崩壊を確率論的に薄めているだけに過ぎない。上司に怒鳴られるストレスが、同僚との「緩やかな監視」という名のストレスに相転移しただけだ。情報の幾何学的な配置が変わったところで、そこに流れる冷徹な搾取の論理は何ら変わらないのだ。

界面

結局のところ、組織の成長とは、より高度な「情報の散逸」を実現するための舞台装置の大型化に過ぎない。経営者が「相転移」を期待して大規模な投資を行うとき、彼らは知らず知らずのうちに、より巨大な熱死へのカウントダウンを早めている。会社を大きくするということは、より多くのゴミを出し、より多くの熱を排出し、より多くの人間を「効率の悪い燃料」として灰にする権利を得るということだ。

私がこの大学の、誰からも忘れ去られたような研究室で、埃を被った論文を眺めながら安いウィスキーを煽っているのは、この無意味な散逸の連鎖から少しでも距離を置きたいからだ。だが、この古ぼけたモンブランの万年筆さえも、使うたびにインクという名のエネルギーを消費し、紙の上に無価値な情報の残骸を残していく。120回払いで買ったこの万年筆のインクが切れる頃には、私の人生というシステムも定常状態を維持できなくなっているだろう。

エントロピーは常に増大し、我々の努力はすべて熱に変わる。ビジネス書の「成功の法則」を読み耽る暇があるなら、自分の脊髄に流れる電気信号が、いかに効率的に周囲の空気を温めているか、その熱力学的な悲哀を噛み締める方がよほど生産的だ。組織の動的平衡とは、ただの「死の先延ばし」の別名なのだから。

帰りたい。結局、どれほど高度な幾何学的構造を築こうとも、中身はただのタンパク質の塊が、互いの体温を奪い合っているだけなのだ。

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