熱的死の事務処理

不可逆な泥沼について

先日は「時間の不可逆性」について、すっかりぬるくなった缶コーヒーの油膜を眺めながら議論したが、今日はその時間の器を無慈悲に満たしていく「タスク」という名の厄災について、もう少し物理的かつ、生活感の滲み出る話をしよう。

我々が「労働」と呼んでいる営みは、社会学的な意義や自己実現といった手垢の付いた言葉を剥ぎ取れば、その実態は極めて不毛な「エントロピー増大との局所的な抗争」に過ぎない。組織という巨大な非平衡開放系において、我々は情報の秩序を維持するために、己の自由エネルギーを日々すり減らしている。

考えてもみてほしい。月曜日の朝、受信トレイに積み上がった未読メールの山。あれは情報の雪崩であり、熱力学第二法則が牙を剥いた姿そのものだ。我々が必死に返信を打ち込み、スプレッドシートのセルを埋める行為は、熱いコーヒーが冷めていくのを必死に手で扇いで止めようとするような、滑稽で愛おしい無駄に満ちている。

馬鹿みたいに。

散逸と伸びきった蕎麦

物理学の視点に立てば、個人のワークフローとは「低エントロピー状態(整った計画)」から「高エントロピー状態(混沌とした現実)」へと転がり落ちるプロセスだ。我々が「タスクを消化した」と悦に浸る瞬間、実は系全体のエントロピーは劇的に増大している。

この感覚は、駅前の立ち食い蕎麦屋で遭遇する悲劇に似ている。当初、私はシンプルで潔い「かけ蕎麦」を注文したはずだった。澄んだ出汁、整然と並んだ麺。それはミニマリズムの極致であり、処理可能なタスクの理想形だ。しかし、食べる間もなく横から「かき揚げ(緊急の修正依頼)」が投入され、さらに「生卵(無意味な定例会議)」が落とされ、気づけば頼んでもいない「コロッケ(上司の思いつき)」までが汁を吸って膨張している。

もはやそれは「かけ蕎麦」ではない。トッピングが雪崩を起こし、丼の縁から脂ぎった汁が溢れ出す、情報の「二郎系ラーメン」だ。麺は伸びきってふやけ、箸で持ち上げようとすればブツブツと千切れる。この千切れた麺の感触は、安物のトイレットペーパーが肝心なところで破れる時の、あの殺意にも似た苛立ちを想起させる。

一つの問題を解決すれば、その過程で生成された「確認の連絡」や「次の会議の調整」という名の廃熱が、周囲の人間を新たな熱地獄へと叩き込む。給料日前だというのに、容赦なく口座から引き落とされるATMの手数料のように、システムは我々のリソースを微量ずつ、しかし確実に削り取っていく。机の上に積まれた公共料金の督促状を見なかったことにして出社しても、待っているのはディスプレイの中で増殖するデジタルの督促状だけだ。

人間の脳というハードウェアは、この増大し続ける熱負荷に耐えられるようには設計されていない。スマホのバッテリー劣化を嘆く前に、自分の前頭葉の熱暴走を心配すべきだろう。マルチタスクという名の過負荷(オーバークロック)を続ければ、神経回路は焼き切れ、出力は低下し、最後には思考停止という名のフリーズが待っている。

なんだこれ。

思考の自動販売機と腐敗

しかし、ここで奇妙な現象が起きる。情報の密度がある臨界点を超えたとき、そこに「脳の肩代わりをする寄生虫」――最近流行りの、シリコンでできた思考の自動販売機――を投入すると、情報の状態が変質するのだ。

これまで人間が泥臭く手作業で行っていた「情報の並べ替え」や「謝罪文の捏造」という液体的な作業を、その寄生虫が一瞬で乾燥させ、粉末へと変える。重苦しいPDFの束が、味気ない数行の要約へと圧縮される。これを世間では進化と呼ぶらしいが、私には情報の「腐敗」あるいは「発酵」に見える。

手間が省けた結果、系からは「サボり時間」という名の空白が放出される。本来であれば、我々が情報の処理に費やすはずだった純粋な時間の死骸だ。問題は、この死骸をどう弔うかにある。

多くの組織は、この浮いた時間を「さらなるタスク」で埋めようとする。空いたスペースにさらにゴミを詰め込むのは、散らかった部屋の汚さを隠蔽するために北欧ブランドの巨大な収納家具を買い足して、逆に足の踏み場をなくす行為に等しい。なぜ人間は、余裕ができるとわざわざそれを台無しにするような真似をするのだろうか。

欠落と浪費

本来、技術による腐敗がもたらすべきは「労働の蒸発」であるはずだ。情報の処理が自律的に行われ、人間がその熱力学的な責任から解放されたとき、残されるのは「純粋な退屈」という名の贅沢品である。

しかし、現代人はこの退屈を恐れる。静寂に耐えられない。だからこそ、数ヶ月分の家賃を溶かして手に入れたハーマンミラーの椅子に腰を下ろし、腰痛という名の業を背負いながら、網膜を焼き切るような高精細な4Kモニターを睨みつける。その画面に映っているのは、高解像度で描写された「自分の視力が衰えていく様」と、終わらないタスクの山だけだ。余剰エネルギーを「より速く、より多く」という強迫観念へと再投資するこの行為は、熱力学的な循環ではなく、単なる情報の自食行為だ。

我々が真に活用すべきサボり時間とは、効率を高めるためのガソリンではなく、世界を「観察」するための余白であるべきだ。シリコンの義手によって軽くなった脳を、再び重苦しい数字やタスクの重力圏に引き戻してはならない。

「やる気」という名のバグに惑わされるな。それは神経系が、エネルギーを無駄遣いさせるために見せる幻覚に過ぎない。

帰りたい。

結局のところ、タスクの熱力学が教えるのは、いかに効率よく働くかではない。いかにして情報の熱死を避け、系の中に「意味のある空隙」を作り出すかだ。その空隙に何を入れるか? それは酒でも、文学でも、あるいはただ窓の外を眺めるだけの時間でもいい。

高度に抽象化された情報処理の果てに、我々が手にするのは「人間という不合理な熱源」の再発見である。システムが最適化されればされるほど、そこから零れ落ちる「無駄」こそが、唯一の生存証明となる。

さて、この講義もそろそろ終わらせよう。私の脳内のエントロピーも、この安物のビールのせいで臨界点に達しつつある。次の相転移は、おそらく泥酔という名の機能停止だろう。

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