予測の檻
駅のコンコースに貼り出された求人広告の、あの不気味なほど白く修正された歯を見せて笑うモデルたちを見ていると、こちらの胃酸が逆流しそうになる。「自己実現」だの「社会貢献」だの、よくもまあ、そんな空虚な呪文を真顔で唱えられるものだ。連中が売っているのは希望ではない。あらかじめプログラムされた絶望への、片道切符だ。
前回の酒席――いや、講義だったか――では、組織という名の巨大な虚構がいかに個人の時間を収奪するかについて論じたが、今日はもう少しミクロな視点、君たちが日々デスクで繰り広げている「タスク」という名の泥仕合について、物理学のメスを入れて解剖してみよう。結論から言えば、君たちの労働に高尚な意味など微塵もない。それは単なる「予測誤差の最小化」であり、もっと露骨に言えば、増大し続ける宇宙のエントロピーに抗って、己の認知リソースを無駄火(むだび)として燃やし続ける、敗北が約束された熱力学的抵抗に過ぎないのだ。
なんだこれ、お通しがまだ来ていないぞ。
カール・フリストンの自由エネルギー原理を持ち出すまでもなく、生物の根本的な衝動は「驚き(サプライズ)」の回避にある。脳は高度な推論機械であり、外界から放り投げられる混沌とした情報を、自らの内部モデルに強引に当てはめ、予測可能な平穏へと着地させようとする。生きるということは、不確実性を潰し続けるプロセスそのものであり、皮肉なことに、それが「仕事」の正体だ。
君が明日までに仕上げなければならない報告書。その本質は何か? それは、上司という名の「予測不能な確率変数」を制御するための、一種の儀式である。クライアントの曖昧模糊とした要求を、論理という名のフィルターに通して脱水し、予定調和なPDFファイルに変換する。このプロセスにおいて、君の脳は必死に自由エネルギーを最小化しようと試みている。
これを卑近な例で言うなら、君が「かけ蕎麦」を注文したのに、厨房の気まぐれで「二郎系ラーメン」が出てくるような事態を防ぐための不断の努力だ。マシマシの脂とニンニク(不確実性)を、醤油ベースの澄んだスープ(論理的帰結)へと引き戻す作業。だが、現代の労働環境において、我々の目の前に供されるのは常に、増殖し続けるモヤシと背脂の山である。人間は、この複雑怪奇なスープを飲み干そうとして、認知的な「熱」を発する。これを心理学者は「ストレス」と呼び、物理学者は「散逸」と呼ぶ。
認知の熱暴走
思考とは、物理的なコストを伴う破壊的な計算処理である。神経細胞が発火するたびに、ATP(アデノシン三リン酸)が消費され、熱が環境へと放出される。君が「効率的なマルチタスク」だと思い込んでいる状態は、古いスマートフォンのバッテリーが劣化して、大してアプリも動いていないのに本体ばかりが熱くなっている状態と物理的に何ら変わりない。
この認知負荷の増大は、熱力学的な境界に直面する。情報処理の速度を上げれば上げるほど、系から排出される廃熱は増え、最終的にシステムは「熱死」を迎える。これが現代病としてのバーンアウトの正体だ。自己啓発本が説く「集中力のマネジメント」など、オーバーヒートしたエンジンに冷水をぶっかけるような、その場しのぎの蛮勇に過ぎない。
結局のところ、我々は情報の処理系としてあまりに非効率なのだ。それを補うために、連中はやれAIだの、DXだのと騒ぎ立てる。しかし、道具を新調したところで、扱う人間側の「熱」が下がるわけではない。
例えば、私が今、この原稿を書くために使っている高価な給電式板切れ。これ一つに四万円以上もの値を付ける神経が理解できない。ただの入力デバイスにこれほどの対価を払うのは、もはや物理的な効率ではなく、精神の安定を金で買っているに等しい。打鍵感がどうのと言いつつ、結局は予測誤差の最小化に伴う苦痛を、指先の快楽で誤魔化しているだけではないか。馬鹿みたいに。四万円あれば、もっとマシな酒が飲めるだろうに。
我々の感傷――「達成感」や「やりがい」――も、この物理現象に付随するバグに過ぎない。予測誤差がゼロに近づいたとき、脳内でドーパミンが放出される。それは「世界を正しく認識できた」という神経科学的な報酬であり、魂の救済でも何でもない。ただのシステムのログ出力だ。「生産性を高めて社会に貢献」などという寝言は、このログ出力を神託と勘違いした連中の妄想に過ぎない。
虚構の静寂
労働における自由エネルギー原理が示す残酷な真実は、我々がどれほど「最適化」を推し進めても、外部環境(公共性や市場)が供給する複雑性がそれを常に上回るという点にある。
組織が肥大化すれば、内部のコミュニケーション・コストは指数関数的に増大する。情報の伝達過程で生じるノイズを打ち消すために、さらなる会議(情報処理)が必要になり、系全体のエンタルピーは上昇の一途を辿る。これは「ブルシット・ジョブ」が発生する数理的な必然である。我々は、情報の荒野で、必死に「秩序」という名の砂の城を作っているに過ぎない。潮が満ちれば――不況が来れば、あるいは技術が陳腐化すれば――その予測モデルは一瞬で崩壊し、またゼロから予測誤差の最小化を強いられる。
この不毛なサイクルを「キャリア」と呼び、美化することで、かろうじて正気を保っているのが現状だ。だが、冷静に考えてみたまえ。無能な背骨を甘やかす二十万超えの粗大ゴミにふんぞり返り、革の手帳に予定を書き込んだところで、君が処理しているのは、宇宙の端っこでチリのように舞っているノイズの断片でしかない。その椅子に二十五万円以上の価値を見出すのは、もはや宗教的な狂気だ。重力から解放される代償として、資本主義の奴隷制度に重課税されていることに気づかないのか。
労働プロセスとは、自己を熱力学的な「開放系」から「閉鎖系」へと偽装する、終わりのないフィクションだ。予測誤差を最小化し、サプライズを排除し尽くした先にあるのは、完全な静寂、すなわち死である。我々は、予測できない明日を恐れながら、予測できてしまう明日を退屈だと嘆く。この認知的な矛盾こそが、人間というバグそのものなのだ。
さあ、グラスが空だ。
これ以上、私の脳の自由エネルギーを「社会学的考察」という名の低俗な演算に浪費させるのはやめてくれ。注文した焼き鳥がまだ来ない。この予測誤差の増大こそが、今の私にとって唯一の、そして最も深刻な熱力学的危機なのだから。

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