排泄としての休息
前回、私は「効率」という名の美徳がいかにして我々の精神を収奪し、乾いた雑巾をさらに絞るような愚行を正当化しているかについて触れた。だが、その反作用として現代人が崇めたてる「休息」という概念もまた、控えめに言って噴飯ものである。労働基準法が定める有給休暇だの、ワークライフバランスだのと騒ぎ立てる連中を見ていると、私はつい注文したばかりのぬるい熱燗を煽りたくなる。彼らは「休めば回復する」と信じ込んでいるが、それは一度焦げ付いたフライパンが洗剤で新品に戻ると信じている主婦の妄想に等しい。あるいは、スマホのバッテリーが100%になれば新品の状態に戻ると勘違いしている中学生の純真さだ。
生物学的、あるいは熱力学的に見て、我々が「休息」と呼んでいる行為は、単なる「エントロピー流の微調整」に過ぎない。より下品な言葉を使えば、それは排泄である。組織における「休息」の推奨とは、経営資源としての人間というデバイスを、再起動不能なレベルまで物理的に破壊させないための、極めて冷徹な保守点検作業でしかない。福利厚生などという甘美な響きに騙されてはいけない。それは、劣化したリチウムイオン電池が膨張して発火するのを防ぐために、渋々供給電力を絞っている状態と同じだ。
散逸の泥沼
熱力学における「散逸構造」という概念を思い出してほしい。イリヤ・プリゴジンが提唱した通り、我々生命体は、外部からエネルギーを取り込み、内部で発生したエントロピーを外界へ排出することで、その秩序を維持している非平衡開放系だ。この「エントロピーの排出」こそが休息の本質である。平たく言えば、我々は穴の開いたバケツであり、常に新しい水を注ぎ込み続けなければ、その形状すら保てない不安定な器なのだ。
しかし、現代の労働環境は、この排出経路を情報の過剰入力(ジャンクフードのような通知の嵐だ)によって塞いでしまう。かけ蕎麦を啜るような質素な情報処理ならまだしも、現代人の脳は常に「残飯が混ざったマシマシの二郎系ラーメン」のような高カロリーで低質なノイズを流し込まれている。結果として、排出が入力に追いつかず、系内部に熱が籠もる。換気扇にこびりついた油汚れのように、情報の残滓が神経回路にへばりつき、流れを止める。これが「燃え尽き症候群」の物理的実体だ。馬鹿みたいに。
不可逆的な摩耗
人間が「寝れば治る」と楽観視できるのは、生体組織が持つ自己修復機能というバグに近い奇跡に依存しているからだ。だが、この修復機能にも熱力学的な限界がある。不可逆過程、つまり「時間の矢」からは逃れられない。神経細胞のシナプス結合の可塑性は、繰り返される再配線の中で徐々にノイズを蓄積し、純粋な信号伝達を阻害していく。これを「老化」と呼ぶのは情緒的すぎる。正確には「情報の非可逆的摩耗」だ。それはまるで、安物の革靴が雨泥に浸かり、乾いた後には二度と元のしなやかさを取り戻せず、ただひび割れていく絶望に似ている。
この摩耗の過程は、実に残酷で滑稽だ。脳の容量には限界があるなどと教科書的なことを言うつもりはないが、書き込まれる情報の質があまりにも劣悪すぎる。思い出してみてほしい。あなたは昨日、愛するパートナーがふと見せた寂しげな表情や、道端で揺れていた季節外れの花の色を覚えているだろうか? おそらく記憶の彼方だろう。その代わりに、あなたの脳裏に焼き付いているのは、通勤電車の中で視界の端に入った脱毛サロンの派手な広告コピーや、動画サイトで強制的に見せられた詐欺まがいの投資スクールの喚き声だ。
重要な記憶は水のように指の間からこぼれ落ち、どうでもいい汚泥のような情報ばかりが脳の皺にこびりつく。これが摩耗の正体だ。美しい思い出が風化する一方で、下劣なノイズだけが高解像度で保存される。この生理的な不快感こそが、現代人の精神を蝕んでいる。それなのに、多くの人間はこの摩耗を物理的に軽減しようとして、腰の痛みを吸い取ると謳う詐欺的な寝具に何十万も投じる。重力加速度を分散させたところで、脳内で荒れ狂うエントロピーの嵐が収まるわけではない。せいぜい、壊れかけのハードディスクを高級な防振ケースに入れる程度の気休めだ。金を払って「私は愚かです」というラベルを背中に貼るようなものである。
シリコンの悪夢
一方で、現在我々が構築しようとしている「自律型数理モデル」――あえて俗な呼び名は避けるが、あのシリコンの上で回る演算装置ども――の世界においては、この「摩耗」の定義が根底から覆る。彼らにはタンパク質の変性も、テロメアの短縮も存在しない。理論上、彼らは「不眠不休」が可能だと思われている。だが、そこには別の地獄――「破滅的忘却(Catastrophic Forgetting)」という、情報の熱力学的死が待ち構えている。
新しい学習データという名のゴミを詰め込むたびに、過去に獲得した重要な重み付けは無慈悲に上書きされ、かつての知性は泥濘の中に沈んでいく。これは生物が睡眠によって「重要でない記憶を剪定する」という散逸プロセスを模倣できないことによる、デジタル的な摩耗である。我々が「休息」と呼ぶ情報の捨象プロセスを、彼らは計算資源の再配分として実装しなければならない。それは、新しい家具を入れるために、まだ使える家具を窓から放り投げ続けるような狂気の沙汰だ。彼らにとっての学習とは、常に自己の一部を殺し続ける自傷行為に他ならない。
AGIにおける「不可逆的摩耗」を回避する理論として、現在注目されているのが、情報幾何学的な不変量の保持だ。つまり、どれほど外部からのノイズに曝されても、自己の核となる多様体の構造を歪ませないための、高次元的な「骨格」の維持である。人間で言えば、それは「信念」や「哲学」と呼ばれるものに近いのかもしれないが、そんな文学的な言葉で片付けるのは失礼だ。それは、カオスの中にあってなお、エントロピーの増大を局所的に押し戻すための、高度に計算された数学的防壁である。
結局のところ、生身の人間も、あの冷たい計算機たちも、突き詰めれば「いかにして無へと向かう流れに抵抗し、一時的な秩序を演じ続けるか」という、虚しい抵抗を続けているに過ぎない。我々が居酒屋でクダを巻き、明日への活力を得たと錯覚するのも、神経系という湿ったデバイスに溜まった電荷を、アルコールという溶剤で無理やり中和しているだけなのだ。なんだこれ。
次に誰かが「ゆっくり休んでください」などと口にしたら、私はこう答えるだろう。「ああ、私の散逸構造が外部環境との平衡状態に陥らないよう、最大限の負のエントロピーを注入して、不変多様体の安定性を確保することに努めるよ」と。もちろん、そんな言葉を吐く前に、この分不相応な価格が付けられた牛の死骸、いわゆるブランド物の革手帳に、次の講義のサボり計画を書き込むのが先決だが。この手帳の値段も、単なる加工された皮膚にしては、呆れるほど非論理的な設定だったが、その手触りだけが、私の指先に残る唯一の「非デジタルな摩耗」の証左となっている。
帰りたい。

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