廃熱

この安っぽい居酒屋の「飲み放題」というシステムを眺めていると、都市機能の縮図を見るようで眩暈がする。客は元を取ろうと必死にジョッキを空け、店側は原価率を下げるために氷でカサ増しした薄い酒を提供する。そこにあるのは「相互理解」や「サービス精神」といった温かい交流ではない。あるのは、互いのリソースを搾取し合い、システムが崩壊しないギリギリのラインで均衡を保とうとする、殺伐としたエネルギーの押し付け合いだけだ。君たちが「公共性」と呼び、あたかも神聖な概念であるかのように崇めている都市構造も、蓋を開ければこれと全く変わらない。ただ規模が大きく、より欺瞞に満ちているというだけのことだ。

馬鹿みたいに。

摩擦

都市というものを物理学的に定義するならば、それは極めて不自然で不安定な「散逸構造」に他ならない。イリヤ・プリゴジンが生きていれば、この東京という巨大な過密都市を見て、熱力学第二法則の実験場としてさぞかし興味を持ったことだろう。散逸構造とは、外部からエネルギーを取り込み、内部でエントロピー(無秩序)を生成しながら、その廃熱を外部へ捨て続けることで、かろうじて秩序のようなものを維持しているシステムのことだ。つまり、我々が享受している「都市の利便性」や「清潔さ」は、どこか別の場所へ押し付けられた莫大な「汚れ」と「熱」の対価として成り立っている。

深夜のコンビニで、温めすぎて容器の底が変形した弁当を受け取った時の、あの言いようのない不快感を覚えているか? あるいは、満員電車で隣の男の背広から漂う、酸化した脂と疲労の臭いに殺意を覚えたことは? あれらは全て、都市という巨大なエンジンが回転する際に生じる「摩擦熱」だ。社会的共通資本――道路、水道、電力網、法制度。これらを維持するという行為は、スマホのバッテリーが残り1%になった時に、画面の輝度を下げ、通信を切って必死に延命を図る惨めな抵抗と本質的に変わらない。君たちが「インフラが整っている」と安心している裏では、システム全体が抱える熱をどこに捨てるかという、醜悪なババ抜きが行われているのだ。

例えば、君が昼休みにぼんやりと眺めている公園のベンチを見てみろ。単なる木と鉄の塊に過ぎないはずのそれに、数十万円という、中古車が買えるほどの予算が投じられている。この異常な価格設定を見て「税金の無駄遣いだ」と憤るのは素人の浅知恵だ。よく観察してみろ。そのベンチには、ホームレスが横になって眠れないように、意地悪な仕切りが設けられているはずだ。あれは休息のための家具ではない。浮浪者を視界から排除し、都市の景観という「秩序」を守るために計算された「排除の幾何学」の結晶なのだ。我々は、税金という名のエネルギーを、他者を物理的に排除するための冷たい鉄塊に変換して喜んでいる。その鉄の冷たさこそが、公共性という言葉の正体だ。

なんだこれ。

放熱

多くの人間は、公共性を「道徳」や「善意」の文脈で語りたがる。だが、情報幾何学の冷徹な視点から見れば、公共性とは「情報の不確実性を最小化するための最適化アルゴリズム」に過ぎない。我々が信号機の色に従い、エスカレーターで片側を空けるのは、高い倫理観を持っているからではない。そうしないことで発生する「衝突」や「遅延」という計算コストを、脳が無意識に回避しようと損得勘定を弾いているだけだ。君が感じている「マナーを守る自分への誇り」は、システムのエラーを防ぐために脳が分泌した、単なる報酬系ホルモンの残りカスに過ぎない。

最大エントロピー生成原理(MaxEP)によれば、非平衡状態にあるシステムは、可能な限り速やかにエントロピーを生成し、安定状態へ向かおうとする。都市経済において、この「生成されたエントロピー」は、格差、公害、あるいは金曜の夜の新宿駅に充満する嘔吐物の臭いといった形で現れる。秩序を強固にすればするほど、その影には必ず、処理しきれない廃熱が溜まるのだ。

君が残業明けに、思考停止状態で啜る「二郎系ラーメン」を思い出してほしい。あれはもはや食事というより、労働によって摩耗した神経回路に、過剰な塩分と脂質、そして炭水化物を叩き込むための暴力的なエネルギー充填儀式だ。君はそれを「ストレス発散」と呼ぶかもしれないが、熱力学的には、君の体内という閉鎖系において局所的なエントロピー爆発を起こしているに過ぎない。その翌朝、君の内臓は処理しきれない熱量に悲鳴を上げ、トイレの個室で世界の不条理を呪うことになる。都市も全く同じ構造で動いている。煌びやかなオフィスビルが建つたびに、その排水溝の先には、処理しきれない情報の澱と、搾取された労働者の怨嗟がヘドロのように堆積していく。

そうやって蓄積した物理的な負債を誤魔化すために、君たちはまた金を使う。六本木のガラス張りのオフィスで、人間工学に基づいた最新のアーロンチェアに深く沈み込み、腰痛という名の身体的警告を封殺しようとする。その椅子に座っている時、君は自分が「成功者」であるという幻想に浸れるかもしれない。だが、その椅子のメッシュ素材が支えているのは、君の体重だけではない。君がその地位を維持するために切り捨ててきた時間、健康、そして人間性という膨大なコストだ。それは座るための道具ではない。重力という物理法則と、加齢という不可逆な崩壊に抗うための、あまりに高額で、あまりに虚しい防波堤なのだ。

やってられない。

循環

結局のところ、社会的共通資本を「維持」し、「持続可能」な社会を目指すという発想自体が、熱力学第二法則に対する無謀で滑稽な反逆なのだ。万物は壊れ、散らばり、冷えていく。それを食い止めるためには、常に外部から新しい資源を注入し続けなければならない。だが、この惑星自体が閉鎖系に近づきつつある今、その「外部」など、もうどこにも存在しない。

かつての貴族たちが、斜陽の時代に自らの特権を誇示するため、宝石を散りばめた革の手帳に無意味な夜会のスケジュールを書き連ねたように、現代の我々もまた、「公共の利益」という名の儀式を維持するために、天文学的なコストを支払っている。スマホで一瞬で済む予定管理を、わざわざ動物の死皮をなめした帳面に万年筆で書き込む行為。そこには「伝統」や「格式」という名の粉飾があるが、本質は「効率化への抵抗」であり、エントロピー増大への無駄な足掻きだ。その手帳に書き込まれているのは、未来への希望ではない。明日もまた、この摩耗し続けるシステムの一部として機能し、すり減らなければならないという「強制サブスクリプション」の契約書だ。

我々にできるのは、この都市経済システムという名の「壊れかけの暖房装置」が、完全に停止して熱的死を迎えるその瞬間まで、せいぜい不機嫌に、かつエレガントにボヤき続けることぐらいだろう。公共性とは、集団で見る「持続可能という名の幻覚」であり、我々はその幻覚を維持するための、使い捨ての触媒、あるいは単なる「放熱フィン」に過ぎないのだから。

帰りたい。

さて、ビールの追加を頼もうか。このジョッキの底に沈んだ、誰の唾液とも知れぬ澱を見つめながら、私の財布から奪われるエネルギーの行方と、体内で生成される尿酸値の相関関係について思索を巡らせることにしよう。君も、その高価すぎる椅子の上で、せいぜい自分が「システムの一部」であることを忘れないように、必死に背筋を伸ばして座っているがいい。

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