現代の労働環境を俯瞰するとき、私の脳裏に浮かぶのは、得体の知れない脂ぎったスープで満たされた巨大な「二郎系ラーメン」の丼だ。君もその感覚には覚えがあるだろう。目の前の麺を必死で啜り、ようやく底が見えかけたと思ったその瞬間に、無表情な店員によって新たな背脂と野菜の山が、こちらの意思とは無関係に追加されるあの絶望感だ。
ポケットの中で四六時中振動を繰り返すスマートフォンは、もはや通信機器ではない。あれは我々の大腿部の神経を焼き切り、焦燥感という名の電気信号を延々と送り続けるための拷問器具だ。メールを一行返せば、即座に三行の「取り急ぎ」という名のゴミが返ってくる。Slackの通知バッジは、赤い腫瘍のように画面を埋め尽くし、我々の認知リソースを食い荒らす。そもそも「効率的なタスク管理」などという言葉自体が、熱力学に対する冒涜であり、言語矛盾も甚だしい。
ビジネス書を開けば、あたかも人間が「生産性」という名のベクトルを自在に制御できるかのように書かれているが、物理法則の観点から見れば、労働とは単なる「エントロピーの輸出」に過ぎない。我々は自分たちの生活圏に、金銭や成果物という名の「秩序」を無理やり持ち込むために、周囲の環境、ひいては自分自身の神経系や内臓に、膨大な熱と無秩序を撒き散らしているのだ。
労働の熱死と家畜運搬車
イリヤ・プリゴジンが提唱した「散逸構造」という概念を、君のような俗物が覚えているとは思えないが、少しばかり解説してやろう。生命や渦潮のように、エネルギーの流れがあるからこそ維持される動的な秩序のことだ。現代のビジネスパーソンとは、まさにこの散逸構造そのものである。しかし、その維持コストは異常なまでに高い。
毎朝、君は満員電車という名の現代の家畜運搬車に詰め込まれる。そこで他人の湿った生温かい吐息を肺の奥まで吸い込み、加齢臭と安物の整髪料が混ざり合った不快な空気に曝されながら、君の体温は確実に上昇し、脳細胞は酸欠で死滅していく。この物理的な不快指数こそがエントロピーの増大だ。君はその損害を補填し、かろうじて直立するために、コンビニエンスストアで売られている泥水のようなカフェイン飲料を胃に流し込み、悲鳴を上げる心臓を無理やり叩き起こして出社する。
システムが非平衡状態に置かれ続けると、内部では必然的に「排熱」が発生する。人間にとっての排熱とは、ストレスであり、疲労であり、深夜の暴飲暴食だ。この熱を適切に環境へ排出しなければ、構造は崩壊する。いわゆるバーンアウトだ。最近の流行りは、この排熱処理をシリコン製の脳、つまりアルゴリズムに肩代わりさせることらしい。スケジュールを自動調整し、無味乾燥なメールの下書きを作り、我々の代わりに「考える」フリをしてくれるツール群だ。
だが、騙されてはいけない。これは情報の流量を増大させるだけで、系全体の温度をさらに上昇させていることに誰も気づいていない。タスクを一つ片付けるたびに、君の机には空のペットボトルと、支払うべき請求書の山が積み上がる。これを「自己組織化」などと呼ぶのは、現実から目を背けた欺瞞だ。それは君の人生という名の負債が、複利計算で膨らんでいる音に他ならない。スマホのバッテリーが劣化して、モバイルバッテリーという点滴を繋いだまま瀕死の状態で稼働し続けるあの惨めな姿。あれこそが、現代人の標準スペックなのだ。
散逸の美学と指先の鎮痛剤
情報の幾何学的な広がりを考えれば、個人が抱えるタスク群は、多次元空間上の確率分布として記述できる。ここで登場するのが、カール・フリストンの「自由エネルギー原理」だ。我々の脳は、本能的に外部世界から入ってくる情報の「驚き(サプライズ)」を最小化しようとする。予測できない事態は、生存にとってコストが高いからだ。
昨今の自動化ツールを導入するという行為は、この自由エネルギーを最小化するための「外部化された前頭葉」を手に入れることに等しい。アルゴリズムが「次に君がやるべきことはこれだ」と提示してくれるとき、我々の脳内の予測誤差は一時的に減少する。それは一種の麻薬的な快楽だ。しかし、皮肉なことに、予測の精度が上がれば上がるほど、我々の行動は決定論的な軌道に縛り付けられていく。
自由エネルギーを最小化しすぎた先にあるのは、完全な予定調和。つまり、情報の死だ。君の指先が震えているのは、神経系が過負荷で悲鳴を上げているからだ。キーボードを叩くたびに、関節には微細なダメージが蓄積され、腱鞘炎という時限爆弾のタイマーが進む。にもかかわらず、君は指先の軟骨が磨り減る感覚をごまかすために、あの忌々しいプラスチックの塊を撫で回し、僅かな打鍵感の差に救いを求めようとする。
5万円近い大金を払って手に入れたのは「生産性」などではなく、「自分はまだ何かを操作できている」という末期的な錯覚と、静電容量無接点方式という名の鎮痛剤に過ぎない。その高価なゴミを叩いて出力されるテキストが、結局のところ上司の機嫌を伺うための卑屈な進捗報告や、誰も読まない議事録の残骸であるという事実に変わりはないというのに。君が今日、どのキーをどの強さで叩き、どのタイミングで溜め息をつくかさえ、すでに巨大な数式によって予測された「散逸プロセスの最適解」として処理されているのかもしれない。
予測の檻
結局のところ、タスクの自己組織化が極限まで進んだ未来において、人間は「意思決定者」としての地位を剥奪され、単なる「最終確認ボタン(OK牧場)」を押すだけの肉塊へと退化するだろう。
情報幾何学の曲率が極限まで高まり、あらゆる行動が最短の測地線に沿って最適化されるとき、そこに「ノイズ」としての人間性は介在する余地を失う。それはまるで、二郎系ラーメンのスープを、一滴の無駄もなく、完璧な栄養バランスに変換して点滴で血管に直接注入されるような日々だ。確かに効率的で、時間も節約できるだろう。だが、それは果たして「食事」と呼べるだろうか?
我々が「やりがい」や「達成感」と呼んでいるバグまみれの感情は、非効率な予測誤差が生み出す火花のようなものだ。それをアルゴリズムという消火器で完璧に消し止めてしまった後に残るのは、冷え切った、しかし極めて清潔で無菌状態の事務作業の死骸だけだ。君はその清潔な独房の中で、死ぬまで「完了」のチェックボックスをクリックし続けることになる。
さて、そろそろこのグラスを空にして、私も自分の崩壊しかけた散逸構造を維持するために、高エントロピーな深夜の立ち食い蕎麦でも啜りに行くとしよう。胃にもたれる天ぷらの油と、喉を焼くような塩分だけが、私がまだ予測不可能な生身の人間であることを証明してくれる唯一の手段なのだから。
お会計。

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