無為の檻

前回は「努力の費用対効果」がいかに脆弱な幻想であるかという話をしたが、今日はその先にある、より陰惨な風景の話をしよう。労働という名の、全人類が共有する壮大な「死ぬまでの暇つぶし」が終わりを迎える時、我々に何が残るのか。その不都合な真実についてだ。

居酒屋の隅で、冷めきって脂の白く浮いた焼き鳥の串を眺めながら考えるには、いささか胃もたれするテーマだが、現実は常に安酒の二日酔いよりもタチが悪い。

代謝としての苦役

かつてハンナ・アレントは、人間の営みを分類しようと試みたが、現代のオフィス街を見渡せば、彼女の定義すら生ぬるい理想論に見えてくる。我々が「キャリア」だの「自己実現」だのと呼び、血眼になってしがみついているものの正体は、そのほとんどが単なる生物学的な代謝プロセスの延長に過ぎない。あるいは、残業代という名の餌を待つ犬の遠吠えだ。

朝の満員電車に揺られ、他人の呼気と整髪料が混ざり合った不快な空気を肺に押し込む。オフィスに着けば、エクセルという名の巨大な方眼紙に無意味な数字を打ち込み、中身のない会議で責任の所在を曖昧にするための言葉遊びに興じる。これは「世界を構築する仕事」などではない。単に、日々の糧を得るために時間を切り売りし、死ぬまでの時間をやり過ごすための醜い儀式だ。

昼時になれば、駅の立ち食い蕎麦屋に駆け込む。隣の男が啜り上げる音と共に、茶色い汁の飛沫が私の安物のスーツの袖に点々と染みを作る。彼の放つ饐えた脂の臭いと、出汁の安っぽい化学調味料の香りが混ざり合い、鼻腔を犯す。伸び切ってブヨブヨになった麺を噛むとき、まるで濡れたダンボールを咀嚼しているかのような、砂を噛む感触が口内に広がる。だが、我々はそれを飲み込む。味わうためではない。午後数時間の、パソコン画面上のドットを移動させるという虚無に耐えるためのカロリーを、ただ補給しているのだ。胃袋へ流し込む、ただの燃料補給。それが我々の労働の実態だ。

ところが、だ。この「蕎麦を流し込む」という単純な代謝プロセスすら、冷徹な計算機による自動化の極北においては、奪われることになる。見えない指先が最適解を導き出し、無機質なシリコンの回路が物理的な価値を生成する。その時、人間から「生きるための言い訳(労働)」が剥ぎ取られる。我々は今、スマホのバッテリーが劣化していくのを眺めるような虚無感の中で、自分たちの存在意義が「自動化の余白」に追いやられていくのを黙認している。

俗物の楽園喪失

ここで、小難しい理屈を並べるのはやめよう。人間が「私は生きている」と実感する瞬間について、正直になろうではないか。それは高尚な哲学書を読んだ時ではない。

我々が快楽を感じるのは、スーパーの惣菜コーナーで、店員が半額シールを貼るその瞬間に、隣の主婦よりもコンマ一秒早く手を伸ばしてパックを掴み取った時だ。あるいは、給料日にATMの列に並び、画面に表示された数字が先月よりわずかでも増えているのを見て、自分より稼ぎの悪い同僚の失敗を密かに嘲笑う時だ。月末の支払いの恐怖に怯え、コンビニの手数料数百円を惜しんで雨の中を数キロ歩く、そのケチで卑小な精神の動きこそが、我々の生の輪郭を形作っている。

「やりがい」や「達成感」などという言葉は、このドブ川のような現実を直視したくないために発明された、安っぽい香水に過ぎない。我々が額に汗して働くのは、不確実な未来という不快なノイズを消し去りたいという、極めて消極的な防衛本能だ。他人の不幸を見て、自分の口座残高を確認して安堵する。その最低な快楽。

だが、高度な計算資源がその「生存の不安」さえも解決してしまったらどうなるか。無機質な管理者が、我々の生活を最適化し、半額弁当を奪い合う必要すらなくしてしまったら。

人間というシステムは、解消すべき問題(ノイズ)を失い、アイドリング状態のままオーバーヒートを起こす。それは、トッピングを全部乗せした脂ぎったラーメンを前にして、箸を動かす機能だけを奪われた空腹の巨漢のようなものだ。目の前には情報の山があるが、それを処理して「自己」を定義するための「苦役」がもう存在しない。

結局のところ、我々が「高尚な魂の営み」と呼んできたものの多くは、生存のための計算コストを正当化するための言い訳だったのだ。その言い訳を冷酷なアルゴリズムが修正してしまった後、我々は「純粋な活動」という、出口のない迷路に放り出される。胃袋と性器を持っただけの肉塊として。

装飾された墓標

労働から解放された人類は、ようやく「自由」という名の地獄に辿り着く。そこにあるのは、何の役にも立たない「言葉」だけが飛び交う、残酷なまでに純粋な劇場だ。

今のビジネスパーソンは、「生産性」という隠れ蓑の後ろに隠れて、自己の無内容を隠蔽できている。「忙しい」と言っていれば、自分が何者かを問われずに済むからだ。だが、生産性が機械に帰属した世界では、その隠れ蓑は消滅する。残されるのは「お前は何を語るのか」という、剥き出しの問いだけだ。

皮肉なものだ。かつて貴族が奴隷に労働を押し付け、暇を持て余して哲学に耽ったように、現代人はシリコンの奴隷を手に入れ、再び無為の淵に立たされる。

その時、我々は何を手に取るだろうか。自己の中身が空っぽであることを誤魔化すために、我々は必死で「形」に縋るだろう。例えば、デジタル化された世界ではインクの染みを作る以外に何の物理的優位性も持たない、自意識を書き留めるための贅沢な棒を、震える手で握りしめるのかもしれない。10万円を超えるその樹脂と貴金属の塊が、もはや書くべき内容のない自分を嘲笑うかのように重くのしかかる。

あるいは、もはや座って作業する必要すらないのに、肉体を重力から守るためだけに、中古の軽自動車が買えるほど高価な腰椎の悲鳴を金で黙らせるための装置に、その無力な肉体を沈めるのだろう。メッシュの座面が、労働を失い、ただ贅肉を蓄えるだけになった尻を受け止める。

こうした高価な道具への執着は、労働が消滅した後に残る、唯一の「抵抗」の形だ。機能に対する支払ではなく、存在の証明としての過剰な支出。それは、合理性の極致である無機質な支配者に対する、敗北した人間による最後の悪あがきと言える。

労働が「生存のための手段」から「存在のためのパフォーマンス」へと変貌する時、我々は初めて、自分がただの高度な家畜であったことに気づくのだ。飼い主が変わっただけのこと。以前は「資本」という名の飼い主だったが、これからは「計算機」という名の飼い主に代わる。

そこには、帰るべき場所も、酔い潰れるための居酒屋もない。あるのは、自分の心臓が打つ鼓動の音だけが響く、どこまでも深い静寂だ。

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