熱力学的徒労

熱死に向かう居酒屋の片隅で

昨今の「働き方改革」などという甘ったるい言葉を聞くたびに、私は馴染みの居酒屋で、冷めきって表面が硬化した枝豆を指で弾きながら深い溜息をつく。隣の席では、くたびれたスーツを着たサラリーマンたちが、ジョッキの結露を指でなぞりながら上司の悪口を肴にしている。人事部やコンサルタントたちが提示する「効率化」や「ワークライフバランス」というお題目は、まるでスマホのバッテリーが劣化して膨張しているのを無視して、画面の輝度を最小にして凌ごうとする姑息な延命措置にしか見えない。

そもそも「労働」とは何か。社会学的、あるいは経営学的な文脈で語れば、それは自己実現だの公共への貢献だのといった美辞麗句で飾られる。しかし、そんなものは後付けの神話に過ぎない。物理学という冷徹なフィルターを通せば、労働とは単なる「エネルギーの散逸過程」であり、組織とはゴミを排出し続けなければ維持できない「散逸構造」そのものだ。なぜ私たちは働けば働くほど、心という内燃機関に煤(すす)が溜まり、出力が低下していくのか。そのメカニズムを、泥沼のような日常の視点から解体してみよう。

散逸:摩耗する肉体と精神のカス

ノーベル化学賞を受賞したイリヤ・プリゴジンは、外部からエネルギーを取り込み、内部でエントロピーを生成しては外部へ捨てることで、秩序を維持する系を「散逸構造」と呼んだ。会社という組織は、まさにこれだ。社員という名の新鮮なエネルギー源を投入し、会議やメールという名の不毛な摩擦熱を生じさせながら、かろうじて「事業価値」という名の秩序を産み出している。

しかし、このプロセスは無償ではない。熱力学第二法則は、いかなる系においてもエントロピー(無秩序)は増大すると告げている。組織が「クリーンな成果」を出し、洗練されたオフィスビルを維持しようとすればするほど、その外部、すなわち個々の労働者の精神領域には「ゴミ」としてのエントロピーが不法投棄されなければならない。

あなたが日曜日の夕方、喉の奥にこみ上げてくる、あのドブ川のような嫌悪感。あれは単なる憂鬱ではない。組織が秩序を保つために、あなたの内側に排泄した「意味の残骸」だ。それは、安物の消しゴムが文字を消すたびに、自らの身を削って汚らしいカスを撒き散らす様に似ている。消される文字(業務)が増えるほど、消しゴム(あなた)は小さくなり、周囲は黒い粉で汚れ、最後には使い物にならなくなる。

馬鹿みたいに。

誰もがこの摩耗を「キャリア」と呼び変えて正当化する。それは、深夜の立ち食い蕎麦屋で、つゆを吸ってふやけきった天ぷらを「味が染みている」と強弁して胃に流し込む惨めな行為と同じだ。私たちは、自らの生命時間を、数円単位のコストカットや、誰にも読まれない報告書という名の「熱」に変換して捨て続けている。

負の秩序:免罪符としての高額な椅子

では、なぜこの崩壊寸前のシステムは維持されるのか。それは、組織が「事業価値」という幻想の負のエントロピーを生成し続けているからだ。ここで言う事業価値とは、情報の偏りである。市場という無秩序なカオスの中に、無理やり「需要」と「供給」という不自然な非平衡状態を作り出す。これを維持するためには、常に新しい生贄――つまり、誰かの時間と精神――を燃やし続けなければならない。

私がかつて目撃したある若手経営者は、六本木の薄暗い会員制バーで「イノベーションで世界を最適化する」と豪語していた。彼の目は充血し、指先は微かに震えていた。彼が語るビジョンの足元にあるのは、使い捨てられる部下たちの蓄積された疲労と、彼自身のすり減った神経だ。彼はその罪悪感から逃れるように、あるいは自らの実存が霧散するのを防ぐために、あまりにも高価で仰々しいハーマンミラーの椅子を買い求める。

数十万円もするメッシュの座面に身を沈めることで、せめて肉体的な崩壊を遅らせようというわけだ。だが、それは沈みゆく泥舟の中で、金銀財宝を詰め込んだ重い金庫にしがみついているようなものだ。座り心地が良いほど、その重みで沈没は早まる。あんな機能過多な革や樹脂の塊に大枚を叩く神経は理解できないが、それもまた「消費」という名の、束の間の正気を保つための儀式なのだろう。機能性など二の次で、単に「私はこれに座る価値がある人間だ」という自己暗示のためだけに存在する玉座。

帰りたい。

組織が自己組織化を強め、より複雑な階層構造を作り上げるとき、その末端にある個人の「実存」は、ただの統計上の誤差へと成り下がる。これをマルクスは「疎外」と呼び、私は「熱力学的バグ」と呼ぶ。大規模な計算処理の過程で生じる、システムにとってはどうでもいい「不要な熱量」だ。

疎外の熱量:オーバーフローするアルゴリズム

神経科学的な観点から言えば、人間の「感情」は、外部環境の変化に適応するための生存アルゴリズムだ。しかし、現代の労働環境において、この回路は完全にショートしている。

非平衡開放系としての組織が定常状態を維持しようとするとき、個人の「悲しみ」や「虚無感」、あるいは「窓の外に流れる雲をただ眺めていたい」という根源的な欲求は、システムの効率を低下させるノイズとして処理される。上司の理不尽な叱責、満員電車での見知らぬ他人の不快な体温、それらすべては、系のエントロピーを増大させる摩擦熱に他ならない。

だからこそ、現代のマネジメント手法は、いかにしてこの「熱」を冷却するか、という一点に集約される。マインドフルネス? コーチング? 冗談ではない。それらはスマホが熱暴走したときに、保冷剤を裏面に貼り付けるような場当たり的な処置に過ぎない。キャッシュをクリアしたところで、CPU(あなたの脳)の物理的な劣化は止まらないし、基板は焼け焦げている。

我々は、情報の解像度が上がりすぎた世界で、自分という存在を無理やりデジタルデータに変換され、ビットの隙間に押し込められている。その圧搾の痛みこそが、現代の疎外の本質だ。

なんだこれ。

結局のところ、事業価値とは「人間が人間であることを放棄した量」に比例するのではないか。より高度な、より洗練されたサービスを提供するためには、提供側の人間性をより細かく粉砕し、均質化し、散逸構造の歯車として滑らかに機能させなければならない。私たちが「自由」を求めて必死に金を稼ぐのは、皮肉なことに、自分を閉じ込める牢獄の壁をより分厚く、豪華にするためのセメント代を、自らの血肉を売って工面しているようなものだ。

さて、グラスの底には氷が溶けたあとの薄い水たまりだけが残った。私はこのあと、家に帰って古びた重厚な万年筆のインクを補充しなければならない。デジタル化され、散逸していく私の思考を、摩擦係数の高い紙の上に、重力とインクの表面張力というアナログな物理法則によって無理やり定着させる作業だ。

効率も価値も、負のエントロピーもない。ただ、青黒い液体が紙の繊維に染み込み、不可逆的に白紙を汚していくという物理現象だけが、唯一の確かな感触のように思えるのだ。明日の朝には、また組織という名の巨大な室外機から吐き出される、熱い排気の一部になるとしても。

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