窓ガラスが微かに震えている。駅前の道路を掘り返すドリルの重低音が、骨伝導のように頭蓋骨を揺さぶり続けているからだ。あの乾いた打撃音を聞くたびに、私はある種の吐き気を催す。それは騒音への生理的な拒絶ではない。我々の血税という名のエネルギーが、物理的な振動と排ガスという無価値なエントロピーへと変換されている現場を、まざまざと見せつけられているからだ。
彼らはまた掘っている。先月埋めたばかりの場所を、まるでリスが隠した木の実を忘れたかのように、あるいは親の仇でも探しているかのように掘り返している。行政はこの愚行を「インフラの長寿命化」だの「利便性の向上」だのといった美辞麗句で粉飾するが、騙されてはいけない。あれは文明という巨大な寄生虫が、自らの排泄物を食い繋いで生きながらえている、極めて醜悪な生存本能の現れに過ぎない。
散逸:強制されたマシマシの悲劇
公共組織や巨大なインフラプロジェクトの本質を、ノーベル賞学者のイリヤ・プリゴジンは「散逸構造」と定義した。だが、そんな高尚な言葉で飾る必要はない。実態はもっと卑俗で、油にまみれている。それは言ってみれば、「満腹で箸を置こうとした瞬間に、店員から強制的に『マシマシ』の麺を追加される二郎系ラーメン」の悪夢そのものである。
どんぶりの底に溜まった冷えたスープ、白く凝固し始めた背脂、そして伸び切ってふやけた麺。それらを完食することなど、もはや物理的に不可能だ。しかし、システムは止まらない。次から次へと新しい「予算」という名の炭水化物が、客の意思とは無関係に投入される。彼らにとって重要なのは、客(市民)が美味しく食べることではない。厨房(組織)が稼働し続けること、その一点のみだ。
非平衡熱力学の教えるところによれば、システムが秩序を維持するためには、外部から新鮮な自由エネルギー(税金)を取り込み、内部で発生したエントロピー(廃棄物)を外部へ排出し続けなければならない。公共事業における「負のエントロピー」とは、すなわち我々が汗水垂らして稼いだ給与明細から、有無を言わさず引かれる源泉徴収税のことだ。行政はこの「他人の金」を栄養素として貪り食い、代わりに「渋滞、騒音、そして誰が使うのかも分からない巨大な縁石」という形のエントロピーを環境へ垂れ流す。自分のどんぶりが溢れないのは、単にそのゴミを隣の住民の生活圏へ「散逸」させているからに他ならない。
この構造を維持するためには、常に「人為的な不便」が必要不可欠になる。道路が完璧に舗装され、すべてが円滑に回ってしまえば、エントロピーを排出する口実、すなわち来年度の予算を要求する根拠が消滅してしまうからだ。だから彼らは、一度舗装した道路を数ヶ月後にはまた掘り返す。スマートフォンのバッテリーが、何もしていないのに80%から一気にゼロへ転落するように、公共インフラは「意図的に劣化」させられ、維持という名の蘇生措置を永遠に繰り返す。この無限ループの中で、業者の通帳には無機質な数字が刻まれ、我々の生活の質はただ削り取られていく。
環流:摩擦熱を崇める儀式
組織がこの巨大な浪費システムを正当化する際、そこには必ず象徴的な儀式が伴う。それは三時間かけて一ミリも進まない定例会議であり、十人のハンコをリレーするためだけに存在する稟議書である。物理学的に見れば、これらは単なる「摩擦」だ。しかし彼らは、この無駄な摩擦熱を誇らしげに「慎重な合意形成」と呼び、組織の体温だと思い込んでいる。
想像してみるがいい。重厚な会議室のテーブルで、役員がその腕に巻いたパテック・フィリップのコンプリケーションウォッチをチラリと見る光景を。一千万円を超えるその精緻な機械塊は、年次カレンダーという複雑な機構を備えながら、会議室で無為に消費される「生産性ゼロの時間」を冷酷かつ正確に刻み続けている。時計の中の数百の歯車が噛み合う様は美しいが、組織の中の歯車は互いに錆びつき、キシキシと不快な音を立てて摩耗しているだけだ。
投入される資本(自由エネルギー)に対して、社会に還元される実質的な変化の比率は、絶望的に低い。投入されたエネルギーの9割以上は、組織が「組織であること」を維持するためだけの摩擦熱として、冷暖房の効きすぎた会議室の乾燥した空気中に消えていく。人間という哀れな生物は、この無意味なエネルギー消費を「仕事」と呼び、脳内に分泌される微量のドーパミンを「やりがい」と誤認する。それは、沈みゆく泥舟の中で、必死に床を磨いて「自分は貢献している」と思い込む狂人の沙汰に近い。
熱死:冷え切ったスープの底で
最終的に、あらゆる散逸構造は「熱的死」へと向かう。公共事業も、組織も、そして我々の忍耐も例外ではない。エントロピーを外部へ放出し続ける能力には、物理的な限界があるからだ。周辺環境がゴミと負債で溢れかえり、それ以上何も捨てられなくなった時、システムは急速に平衡状態――すなわち、完全な停止へと収束する。
地方自治体の財政破綻や、大企業の動脈硬化的な硬直化は、単なる経営の失敗などではない。それは物理法則に従った、必然的な「冷却」である。「持続可能性(サステナビリティ)」などという言葉でこの過程をモデル化しようとする試みは、いわば死臭の漂い始めた死体の体温を測りながら、「まだ20度あるから活動的だ」と強弁するようなものだ。死にゆくものは、死ぬ。それだけの話だ。
結局のところ、我々に許されているのは、その散逸の過程をいかに冷徹に、そして皮肉たっぷりに観察するかだけだ。例えば、決算期の予算消化のためだけに購入されたモンブランの限定品万年筆を手に取り、それを使って「経費削減案」という名のブラックジョークを書き記すような、倒錯した愉悦。そのペン先から流れる高価なインクもまた、宇宙全体の無秩序を増大させ、終焉を早めるための潤滑剤に過ぎない。
外ではまた、アスファルトを剥がす乾いた音が響いている。彼らは今日も、他人の血肉を貪り、騒音という名のエントロピーを世界に撒き散らしている。それは、宇宙が冷え切るまでの、ほんの束の間の悪あがきだ。二郎系ラーメンのスープを飲み干した後に残る、あの言いようのない胃もたれと、賢者タイムに似た絶望。それが、我々が「文明の持続」と呼んでいるものの正体である。

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