合意の熱死

 公共性。この字面を目にするたび、私の脳裏には安っぽいワックスで磨き上げられた公民館の床や、使い回されたスリッパの湿った感触が蘇る。人々は「公共の利益」や「合意形成」といった言葉を、あたかも神聖な福音であるかのように口にするが、その実態は、泥酔した中年が居酒屋のトイレに撒き散らした吐瀉物の模様に勝手に名前をつけ、それを「星座だ」と強弁するような厚顔無恥な行為に過ぎない。

 断言してもいいが、我々が「組織」や「社会」などと呼んでありがたがっている代物は、美しい幾何学模様などではない。それは、各人が抱える歪んだ欲望や偏見、あるいは単なる生理的な不快感といった確率分布がドロドロに溶け合い、互いに領域を侵食し合っている「統計的多様体」に他ならない。

 この多様体の上で、我々は「合意」という名の一点に収束しようと、日々無意味なカロリーを消費している。だが、少しばかり数理的な素養があれば、それがどれほど絶望的な試みであるかは明白だ。今日は、この救いようのない「公共」という名の幻想を、情報幾何学という冷徹なメスで解剖してやろうと思う。

確率分布の泥仕合

 事業を運営する、あるいは組織に属するということは、常に何らかの意思決定を迫られるということだ。予算の配分、プロジェクトの方向性、あるいはもっと卑近な例で言えば、今日の昼飯に何を食うかという問題だ。

 例えば、昼時の会議室を想像してほしい。ここにはAという確率分布と、Bという確率分布が存在する。Aは「脂ぎった豚骨スープと大量のニンニク」を至高とする確率密度を持ち、Bは「繊細な出汁と喉越しの良い蕎麦」に重きを置く分布を持っている。表面的には「昼食を決める」という単純なタスクに見えるが、情報幾何学の視点に立てば、これは統計的多様体上の二点間を結ぶ「測地線」を引く作業に等しい。

 ここで問題になるのが、「フィッシャー情報計量」によって定義される距離だ。これは単なる物理的な距離ではない。互いの確率分布がどれだけ「区別可能か」、つまりどれだけ「分かり合えないか」を示す尺度だ。AとBの間にあるフィッシャー距離は、絶望的なまでに遠い。Aにとっての「旨味」はBにとっての「暴力的な塩分」であり、Bにとっての「粋」はAにとっての「味気ない液体」としてしか認識されない。

 それにもかかわらず、調整役という名の愚か者は、この二つの分布を無理やり混ぜ合わせようとする。「間をとって、コンビニのパスタにしましょう」などという提案がそれだ。結果、誰の欲望も満たさない、冷えて固まった油脂と味気ない小麦の塊がテーブルに並ぶことになる。互いの妥協によってエントロピーだけが増大し、満足度という名の自由エネルギーが散逸していく。

 馬鹿げている。

 我々はこれを「大人の対応」などと呼んで自慰に耽るが、実際には情報の劣化コピーを互いに押し付け合い、その不味さを共有することで安心感を得ているに過ぎない。これが「合意形成」の正体だ。

双曲空間の地獄

 さらに事態を深刻にしているのは、我々が生きているこの情報空間が、決して平坦なユークリッド空間ではないという事実だ。そこには「リーマン曲率」という名の、逃れられない歪みがこびりついている。

 かつて、昭和という時代には、この曲率が「正」であったかもしれない。正の曲率を持つ球面幾何学的な空間では、平行な二直線はいずれ交わる。どんなに議論が紛糾しても、最後には「まあ、一杯やって水に流そう」という、アルコールを触媒とした強制的な収束点が用意されていた。それは「同調圧力」という名の強烈な重力が支配する、窒息しそうなほどに狭いムラ社会の幾何学だ。

 しかし、現代はどうだ。インターネットという無限の広がりを得た結果、我々の社会空間の曲率は、明らかに「負」へと転じた。負の曲率を持つ空間、すなわち双曲空間(ロバチェフスキー空間)では、平行線は交わるどころか、進めば進むほど指数関数的に離れていく。

 SNSのタイムラインを覗いてみればいい。誰かが「正論」という名のベクトルを放つたびに、空間の歪みは増幅され、反対の意見を持つ者は光速で事象の地平線の彼方へと消えていく。「話せばわかる」という言葉は、ユークリッド空間でしか成立しないナイーブな妄想だ。この負に曲がった空間では、対話を試みれば試みるほど、測地線は乖離し、互いの姿が見えなくなるまで遠ざかる。エコーチェンバー現象などと可愛らしい言葉で呼ばれているが、その本質は、空間そのものが「他者を理解できない」ように構造化されているという幾何学的な絶望だ。

 対話はもはや、相互理解のための架け橋ではない。自らの座標がこの無限に広がる虚無の中で孤立していないことを確認するための、悲痛な叫び声でしかない。

自意識の要塞化

 この歪みきった、そして拡散し続ける情報空間において、個体としての正気を保つためにはどうすればいいか。答えは単純だ。「公共」という名のノイズから、物理的に、そして経済的に遮断された聖域を構築するしかない。

 例えば、オフィスの安っぽい回転椅子が発する軋み音や、隣席の同僚が放つ不快な咀嚼音から逃れるために、我々は大金を払う。人間工学に基づいた腰を破壊する安物の椅子とは一線を画す高機能チェアを導入し、そのメッシュ素材の張力によって自らの肉体を中空に浮遊させる。それは単なる家具への投資ではない。重力と他者からの干渉を拒絶するための、コクピットの構築だ。

 あるいは、会議中の虚ろな時間を埋めるために、凡庸な思考を垂れ流すためのペンに法外な対価を支払う。滑らかなインクのフローと、指先に伝わる適度な重量感だけが、この希薄な現実において唯一信じられる物理法則であるかのように。我々が消費するこれらの高額なガジェットやツールは、生産性を高めるための武器などではない。公共性という名の浸食に対する、防波堤としての「自意識の武装」なのだ。

 そうやって金で買った静寂の中に閉じこもり、ノイズキャンセリングのスイッチを入れた瞬間だけ、世界は一時的に平坦さを取り戻す。哀れなものだ。

日常の微分幾何学

 結局のところ、リーマン曲率による社会的分断を理解するのに、難解なテンソル解析など必要ない。それは我々の日常の至る所に、シミのようにへばりついている。

 駅のATMで、振込詐欺への警告画面を前にしてフリーズしている老人の背中を見るがいい。彼と、背後で舌打ちをしているビジネスマンの間には、数億光年もの情報幾何学的な距離がある。両者の時間は異なる速度で流れており、決して交わることのない平行線として、その場の空気を凍りつかせている。

 あるいは、居酒屋での会計時、スマートフォンの電卓アプリを起動して1円単位まで割り勘の計算を始める同僚の指先。その無機質な数字の羅列には、「共感」や「気遣い」といった変数が入り込む余地はない。そこにあるのは、互いの貸し借りをゼロに清算し、関係性を初期化しようとする、冷え切った計算アルゴリズムだけだ。

 帰りたい。

 調整役を気取るファシリテーターたちは、ホワイトボードにカラフルな付箋を貼り付けながら、この分断された世界を「可視化」した気になっている。だが、彼らがやっているのは、砂漠の砂一粒一粒に名前をつけて管理しようとする狂人の所業に等しい。彼らが描くマインドマップは、カオス理論におけるストレンジ・アトラクタのように、どこにも収束しない軌道を描いて発散していくだけだ。

 公共性という名の多様体の果てには、輝かしい調和も、万人が納得する解も存在しない。そこにあるのは、互いの確率分布を食い荒らし合い、情報の熱的な死を迎えた無機質な統計データの残骸だけだ。

 だから私は、今夜も誰とも合意を形成することなく、一人で食事をとる。自分の細胞が求める塩分濃度と脂質の量に従い、ジャンクフードを胃袋に流し込む。他者の視線も、社会的評価も、健康への配慮さえも切り捨てた、この極めて個人的で閉鎖的な食卓こそが、この曲がりくねった世界で唯一、私が観測できる確実な事実なのだから。

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