やれやれ、今日もまた「定例」という名の思考停止の祭典に呼び出された。カビ臭い会議室の空気、プロジェクターのファンが唸る不快な低周波音、そして配られた資料のインクの匂いすら、私の前頭葉を締め付ける。ホワイトボードには、誰が書いたかも不明な判読不能なマーカーの跡が残っており、窓の外からは絶え間なく工事現場の掘削音が響いている。これらが織りなす不協和音の中で、我々は「組織の未来」だの「シナジー効果」だのという、実体のない幽霊について語り合うふりをする。
我々日本人は、この「話し合い」という儀式に、まるで二郎系ラーメンの「ニンニクヤサイマシマシ」のような、過剰な期待と情熱を注ぎ込みすぎるきらいがある。脂ぎったスープを飲み干せば健康になれると信じているようなものだ。だが、冷めた目で見れば、それは単なる統計学的なノイズのぶつかり合いに過ぎない。公共的意思決定とは、本来、参加者の脳内にある確率分布をこねくり回して、ひとつの平均値に無理やり押し込める、極めて暴力的かつ非人道的な計算プロセスなのだ。
居酒屋で注文した「かけ蕎麦」が、想定より2分遅れて出てくるだけで店員に舌打ちするような連中が、なぜ「公共」という巨大で曖昧なシステムの設計図を描けると思い込めるのか。その傲慢さは、もはや喜劇の領域に達している。
儀式という名の集団自殺
組織における意思決定。それは労働という名の長い監禁生活の中でも、特に悪質な「生命の浪費」である。我々は蛍光灯のチカチカとうるさい会議室に集まり、あたかも高尚な理想を追求しているかのような、死んだ魚の目をした顔をする。隣の席に座る男の口からは、昨夜の安酒と消化不良の朝食が混ざり合った独特の異臭が漂ってくる。しかし実態はどうだ。各個人の頭の中にあるのは、昨夜の飲み会で払いすぎた割り勘への後悔と、昼飯に食った油ギトギトのラーメンが胃壁を攻撃する鈍い痛みだけだ。
この「納得感」という、道端に落ちたガムのような粘着質で実体のない幽霊を追い求める行為を、私は情報幾何学の視点から眺めることで、かろうじて発狂せずに済んでいる。情報幾何学とは、統計モデルの空間を「曲がった図形」として捉える学問だが、そんな小難しい用語を覚える必要はない。要するに、会議の参加者が持っている意見は、この薄汚い多様体上に点在する座標に過ぎないということだ。
合意形成とは、この点在するゴミのような座標たちを、ひとつの「合意点」へと無理やり掃き集める作業だ。だが、この空間は平坦ではない。誰かが「経費削減」という、誰もが腹の底では軽蔑している正論を吐いた瞬間、空間の曲率は急激に増大する。それは、スマホのバッテリーが残り1%のときに限って、充電ケーブルが断線していることに気づくあの絶望的な停滞感と同じだ。議論は空転し、時間は泥のように重くのしかかる。
測度の重みと金銭的敗北
ここでフィッシャー情報量について触れねばなるまい。教科書的には「パラメータの推定精度の限界を与える量」などと教えられるが、実生活のドロドロした文脈に当てはめれば、これは「苛立ちの解像度」と言い換えられる。誰もが口を揃えて「前向きに検討します」「持ち帰って確認します」と繰り返す、あの吐き気を催すような真空地帯。そこではフィッシャー情報量は限りなくゼロに近づき、言葉は意味をなさず、空間は完全に平坦化する。情報の密度が薄まれば薄まるほど、何も決まらないまま、ただ会議室の空調代と人件費だけが浪費されていく。
一方で、一人の独裁的な上司が「これで行く」と机を叩くとき、フィッシャー情報量は爆発的に増大し、空間は急激に湾曲する。だが、この「強引な収束」の代償は、常に誰かの財布や精神を削ることで支払われる。情報幾何学における曲率とは、システム内のストレスそのものだ。リーマン曲率テンソルが示す値は、部下の胃に開く穴の数と正の相関がある。
無理な合意は、多様体上に消えない歪みを残す。この歪みは、後に「現場のボイコット」や「報告書の改ざん」、あるいは「給湯室での陰湿な悪口」という、負の熱エネルギーとして放出される。物理学的に見れば、エントロピーが増大し、組織というポンコツエンジンがオーバーヒートを起こすのは自明の理だ。
先日、この情報の不法投棄場たる会議室の騒音から逃れるために、数万円のノイズキャンセリングヘッドホンを装着して現実逃避を決め込んでいる若手社員を見た。隣で上司が唾を飛ばして熱弁を振るっている最中に、だ。彼が買っているのは単なる音響機器ではない。会議という「統計的なノイズ」から耳と脳を守るための、法外な価格設定がなされたシェルターだ。静寂という名の虚無を、家賃一ヶ月分ほどの金で購うその姿こそ、現代の意思決定プロセスに対する最も誠実で、かつ悲しい抗議活動と言えるだろう。私もいっそ、あのプラスチックの塊を耳にねじ込み、世界をミュートしてしまいたい。
歪曲された正義とサビ抜きの裏切り
結局のところ、公共的意思決定の正体とは、カルバック・ライブラー情報量(KLダイバージェンス)を最小化しようとする、無意識の、そしてあまりに杜撰な最適化アルゴリズムに過ぎない。各個人の「早く帰りたい」という事後分布と、「社会人として振る舞わねばならない」という同調圧力としての事前分布。この二つの間の巨大な溝を、いかに「それっぽく」埋めるか。そこには正義も真理もない。あるのは、不確実性というストレスから逃れたいという、脳内のドーパミン報酬系の安直なバグだけだ。
論理的な正しさなど二の次で、我々はただ「決まった」という安堵感に酔いしれているだけなのだ。たとえその決定が、泥船に全員で乗り込むことであったとしても。
立ち食い寿司で、職人に「サビ抜きで」と念を押したのに、無造作にワサビを塗りたくられた寿司を差し出されたときの、あの胃の奥が熱くなるような感覚を覚えているだろうか。「言ったはずだ」という正当性と、「作り直させるのも面倒だ」という諦念が入り混じる、あの不愉快な瞬間。あれこそが、システムにおける「情報の不一致」の純粋な姿である。我々の社会は、あのような小さな、しかし確実に精神を削るエラーの集積でできている。情報幾何学的に言えば、合意形成の曲率が無限大に発散し、現実という多様体が崩壊した特異点だ。
公共性という言葉を免罪符にして、我々は今日も、情報の多様体上を無意味に彷徨い歩く。配られる資料のフォントサイズが1ポイント違うだけで修正を命じられるような、無意味な空間で。統計的な期待値は常にゼロ。にもかかわらず、人々は「一歩前進」などと寝言を言う。さっさと帰って、コンビニの安酒で脳を麻痺させるほうが、よほど幾何学的に正しい分布の最適化だと言える。
数理モデルは、君たちの「熱意」や「誠意」など最初から計算に入れていない。フィッシャー情報が示すのは、合意の美しさではなく、単なる「差の露骨さ」だ。どんなに議論を尽くしても、我々は確率分布の波間に漂う塵に過ぎない。君が次に会議で頷くとき、その「納得」はスマホの画面に付いた脂ぎった指紋ほどの価値もないことを、せめてその貧弱な脳に刻んでおくがいい。

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