労働曲率

グラスの中で溶解していく氷を眺めている。熱力学第二法則に従い、秩序ある結晶構造が無秩序な水分子のスープへと崩れ落ちていく様は、私のキャリアそのものだ。隣の席では、くたびれたスーツを着たサラリーマンたちが、上司の悪口という名の排泄行為に勤しんでいる。彼らの発する音波は、安居酒屋の油で汚れた壁に反射し、私の鼓膜を不愉快に振動させる。今日は少し、この「労働」という名の、人間を統計的な確率分布へと還元するグロテスクな営みについて、幾何学的な視点から解剖してみよう。

摩擦係数と脊椎の悲鳴

労働とは、本質的に「不確実性の除去」である。新入社員が電話一本取るのに震えるのは、彼らが対峙するタスク空間の「曲率」が極めて高く、未来の予測が困難だからだ。どこに地雷が埋まっているか分からない荒れ地を歩かされているに等しい。対して、同じ作業を二十年繰り返しているベテランの死んだ目はどうだ。彼らにとっての労働空間は、摩擦係数ゼロの氷上のように平坦だ。思考停止という名の慣性だけで、定時退社というゴールへ滑り込む。

これを情報幾何学の言葉で言えば、フィッシャー情報量の増大による「確率密度の収束」である。フィッシャー情報量とは、あるパラメータの変化が観測データにどれほど鋭敏に反応するかを示す指標だが、熟練者の労働においては、この指標が極限まで高まり、出力のブレが完全に消失している。駅前の立ち食いそば屋で、ふやけたかき揚げを咀嚼する時、その味が昨日と寸分違わず不味いことに安心するのは、そこに職人の「情熱」ではなく、徹底的なエントロピーの抑制(死)を見ているからだ。

逆に、二郎系ラーメンのあの暴力的なまでの盛り付けのゆらぎ、あの制御不能な脂の塊を見よ。あそこにはまだ、情報の「多様体」としての、不潔で、生々しい人間的なバグが残っている。どちらが生物として健全かと言われれば、皮肉なことに、あの血管を詰まらせる脂の山の方だろう。

しかし、現代人はこの「予測可能性」を維持するために、自らの肉体を機械部品のようにメンテナンスすることを強いられる。長時間のデスクワークで悲鳴を上げる腰椎をなだめるために、私たちは重厚な鋼鉄とメッシュで編まれた拘束具を自費で買い求め、歪みゆく骨格を無理やり矯正する。あるいは、指先のわずかな摩擦抵抗にすら神経を尖らせ、静電容量無接点方式という祭壇をデスクに祀り上げ、思考をデジタル信号へと変換する効率をコンマ一秒でも縮めようと躍起になる。

自らを純粋な「計算資源」へと近づけるためのコストとしては、あまりに滑稽で、涙ぐましい投資だ。腰が痛い。この椅子が悪いのではない。この社会空間の曲率が、私の脊椎の設計仕様と合っていないのだ。

強制される測地線

ここで、現代の怪鳥たる「自動最適化アルゴリズム」が、この労働多様体に介入した際の惨状を記述せねばならない。従来の最適化が、人間による泥臭い試行錯誤――いわば、泥酔した夜に記憶を頼りに帰宅するような探索行為――であったのに対し、現在の計算機システムが行っているのは、労働空間の幾何学そのものを土足で踏み荒らし、書き換える作業だ。

私たちが「仕事に慣れてきた」と感じる時、脳内ではシナプスの結合荷重が書き換わり、情報の伝達経路が最適化されている。これは生物学的な、あまりに時間の掛かる非効率なプロセスだ。しかし、システムが介入した瞬間、この「慣れる」というプロセス自体が消滅する。最短経路(測地線)は常にディスプレイ上に明示され、人間はその上を滑るだけの肉塊となる。

情報の幾何学において、理想的な正解分布と、現在の貴様の無能な確率分布。この二つの距離(KLダイバージェンス)をゼロにするために、アルゴリズムは空間を無理やり捻じ曲げる。その結果、何が起きるか。労働者の「主観的な時間」が蒸発するのだ。

スマホのバッテリーが劣化し、表示上は80%あるのに、カメラを起動した瞬間に1%まで急落して電源が落ちる。あの裏切りの感覚を知っているだろう。私たちの経験値もまた、同じように連続性を失う。十年かけて磨いた職人芸も、エクセルのマクロも、翌朝のシステムアップデート一つで、路上の吐瀉物同然の価値へと置換される。そこには「習熟の喜び」などという感傷が入り込む余地はない。あるのは、最適化された平坦な大地を、首輪を繋がれたまま歩かされるという、幾何学的な絶望だけだ。

ビールがぬるい。

蒸散する自我

結局のところ、私たちが「やりがい」と呼んでいるものの正体は、この情報幾何学的な「摩擦熱」でしかない。計算が合わない、人間関係がヘドロのようにこじれる、理不尽なクライアントが喚き散らす。それらのノイズを処理するために、脳はドーパミンという名の麻薬を分泌し、必死にカロリーを消費して抵抗する。この時に発生する熱こそが、私たちが「生きている」と錯覚する源泉なのだ。

だが、最適化の曲率が極限まで設計された社会において、この摩擦は「ロス」として徹底的に排除される。フィッシャー情報量は最大化され、誰がやっても、誰が代わっても、寸分違わぬ結果が出る「透明な労働」が完成する。その時、個人の多様体は社会という巨大な超平面に吸い込まれ、アイデンティティは消失する。私たちは、もはや点ですらなく、ただの統計量になる。

今の若者が、効率の悪さを承知で高価な一枚革のバインダーにペンを走らせたり、あえて不便なアナログレコードに針を落としたりするのは、この「情報の平坦化」に対する無意識の反逆だろう。あえて曲率の高い、歩きにくい道を選び、摩擦熱を発生させようとする、生物としての最期の足掻きだ。

だが、それすらも「アナログ回帰」というマーケティングの分布の中に、とっくに予測済みとして組み込まれているのだとしたら、これほど笑えない話はない。教授職なんて虚飾を背負い、不味い居酒屋で情報の幾何学を説いている私自身、この社会の最適化プロセスから弾き出された「外れ値」であることを願うばかりだ。

おっと、注文していた枝豆が来た。この豆の配置も、きっと統計学的には最も「ありふれた」分布に従い、私を適当に満足させるよう計算されているのだろう。死にたくなければ、飲んで忘れることだ。

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