労働の熱力学

黄金色の精神安定剤

まずはその薄ら笑いを消してくれないか。この店の中ジョッキに注がれた「労働の対価」という名の黄金色の液体は、君たちの血管に流れる絶望を希釈するためだけの、質の悪い燃料に過ぎないのだから。君が今日一日、キーボードを叩いて積み上げたものが何だったのか、直視したくないからここに来たんだろう?

私も同じだ。隣の席から聞こえるサラリーマンの愚痴と、揚げ物の油が酸化した臭い。この劣悪な環境こそが、我々の脳という高コストな演算装置が弾き出した「最適解」だというのだから、生物学というのは残酷な冗談としか思えない。

今日は、君たちが「高潔な社会活動」と呼んで憚らない「労働」という名の、あまりに滑稽で、吐き気を催すエネルギー散逸について話をしよう。つまみはいらない。どうせ胃もたれするだけだ。

散逸:腐った納豆と、減り続ける銀行残高

世のビジネス書が、やれ「生産性の向上」だの「タイムマネジメント」だのと、耳当たりのいい呪文を唱えているのを聞くと、排水溝に詰まったヘドロを箸でつついているような暗い気分になる。物理学の視点から見れば、あんなものは寝言に等しい。

労働の本質とは何か。それは、我々の脳という、維持費ばかりかかるポンコツな演算装置が、外界の無秩序——例えば、冷蔵庫の奥で異臭を放つ数週間前の納豆や、整理されることなく積み上がった督促状——に抗って、一時的に「秩序」という名の虚像を維持しようとする、終わりのない負け戦だ。

熱力学第二法則は、上司の命令よりも冷酷で、絶対的だ。宇宙は常に無秩序(エントロピーの増大)へと向かう。君のデスクの上を見てみたまえ。放っておけば埃が積もり、書類は地層を形成し、飲みかけのペットボトルからはカビが生える。それが宇宙の自然な姿だ。君が「タスクを完了させる」というのは、自らの代謝エネルギーを注ぎ込んで、そのエントロピーの増大を無理やり食い止めている状態に過ぎない。

これを経済学の言葉で「価値創造」と呼ぶのだから、笑わせてくれる。実際には、我々はリンゴを齧って得たわずかなATP(アデノシン三リン酸)を、エクセルシートのセルを埋めるという、宇宙の寿命から見れば一瞬で消える無意味な記号配置に変換しているだけなんだよ。あのセルの結合ひとつひとつが、君の生命力を削り取った残骸だ。

馬鹿みたいに。

例えるなら、そう、かけ蕎麦一杯分の金と消化能力しか持たない胃袋に、いきなり脂ギトギトの野菜マシマシ二郎系ラーメンを、無理やり喉奥まで流し込まれているようなものだ。

君の脳は、朝起きた時点では「今日はメールを3通返して、定時で帰ろう」程度の、さっぱりとした「かけ蕎麦」プランしか立てていなかったはずだ。計算資源もその程度しか用意していない。ところが、出社した瞬間にクライアントや上司という名の「厄介な外力」が、脂ぎった「急ぎの案件」や、ニンニク臭い「仕様変更」をトッピングしてくる。断る権利はない。強制的な嚥下だ。

当然、脳というエンジンの排熱処理は追いつかない。ファンは悲鳴を上げ、思考回路はショートし、意識はドロドロの豚骨スープの底に沈んでいく。これが、君たちが「ストレス」と呼んでいる現象の正体だ。精神的な弱さではない。単なる過食による消化不良であり、生体システムの物理的な熱力学的破綻だ。そこに「成長」だの「やりがい」だのといった高潔な精神など、欠片も存在しない。

予測:五万円の呪物と、予測誤差の恐怖

最近、情報幾何学や神経科学の世界では、カール・フリストンが提唱した「自由エネルギー原理」なんて言葉が流行っている。難解な数式を並べ立てているが、要は「脳は未知を極端に嫌う臆病者だ」と言っているに過ぎない。

脳にとって最大の恐怖は「サプライズ」だ。何が起こるかわからない状態、予測不可能な事態は、計算コストを無限に消費する。今月のカードの請求額が予想より数万円多いことや、上司の機嫌が「なんとなく悪い」理由が分からないこと。この「不確実性」こそが脳を焼き尽くす。

だから脳は、常に外界のモデルを作り、先読みをしようとする。仕事において「ルーチンワーク」が楽なのは、予測誤差がゼロになり、自由エネルギーが最小化されるからだ。何も考えなくていい時間は、脳にとっての麻薬なんだよ。

だが、現実はどうだ? メールボックスを開けば、君の予測モデルには存在しなかった「至急」の文字や「謝罪行脚」という名のノイズが溢れている。そのたびに脳はモデルの修正を余儀なくされる。この「モデルの書き換え」に費やされる計算資源こそが、現代労働における真のコストだ。

面白いのは、この計算資源を最適化しようとして、あるいはエントロピーの嵐に耐えかねて、我々が妙な道具に縋り始めることだ。

例えば、思考のノイズを減らすために、指先の微細な振動を電気信号に変えるだけの静電容量無接点方式のキーボードに、家賃の半分近い大金を投じる狂信者がいる。

ただのスイッチの集合体に、高級ブランドのバッグ並みの対価を支払うその心理は、もはや理性的判断ではない。それは、荒れ狂う不確実性の海で、せめて指先の感覚だけは自分の支配下にあると信じたいがための、悲痛な「祈り」だ。スコスコというあの独特の打鍵音は、彼らにとっての読経のようなものだろう。

なんだこれ。

一文字打つごとに五万円の重みを感じ、指先をコンマ数ミリ浮かせる労力を惜しんで大金を投じている。その一方で、画面に打ち出している内容は「お世話になっております」という、AIでも1秒で生成できるゴミのような定型文だ。あるいは、誰も読まない議事録。この非対称性、この滑稽なまでの資源の無駄遣いこそ、人間というバグだらけの計算機の愛すべき欠陥だよ。

指先の感触に数万円をかける一方で、自分の人生がどこへ向かっているかの計算は、1円の価値もない妄想で済ませている。道具は進化しても、それを使うOSが旧石器時代のままなんだ。

廃棄:戦略的無能という名の生存本能

さて、認めよう。計算資源には限界がある。スマホのバッテリーが、購入当時は丸一日持ったのに、今では充電100%でも動画一本で見事に死ぬように、我々の神経細胞もまた、加齢と過負荷、そして安物の酒によって、最大容量は日々、音を立てて目減りしている。

やる気が出ない? 情熱が失われた?
寝ぼけたことを言うな。それは君の精神性の問題ではないし、自己啓発本を読めば治るような病気でもない。単に、君の脳内にあるミトコンドリアという微小な発電所の出力が、要求される計算量に追いつかなくなっただけの、極めて物理的な故障だ。

あるいは、脳内の老廃物を除去するグリンパティック系の清掃が間に合わず、ニューロンの隙間に、腐った生活の残りカスや、処理しきれなかった上司の嫌味がヘドロのように溜まっているだけのこと。

情熱なんていう、安い恋愛小説に出てくるような情緒的な言葉で、この物理的な欠陥を塗り潰そうとするのはやめたまえ。それは、エンジンの焼き付いた軽トラに向かって「お前の根性が足りないから走らないんだ」と説教するくらいナンセンスで、かつ犯罪的だ。

結局のところ、エントロピー増大の法則に支配されたこの宇宙で、我々にできるのは「計算資源の適正な廃棄」だけなんだよ。どのタスクを「解かない」と決めるか。どのメールを「見なかったこと」にしてゴミ箱に放り込むか。どの会議を、死んだ魚のような目でやり過ごし、脳のクロック数を極限まで落としてスリープモードで耐えるか。

この「戦略的無能」こそが、情報の濁流の中で自分の散逸構造を維持し、個体としての輪郭を保つための唯一の知恵だ。全てに全力で取り組む人間から順に、熱力学的な死を迎える。

帰りたい。

おっと、つい本音が漏れたね。だが、この「帰りたい」という、胃のあたりからせり上がってくる生理的な嫌悪感こそ、生物が生存戦略として持つ最もプリミティブで、最も正しいシグナルだ。「これ以上の計算資源の投入は、個体の崩壊を招く」「直ちにシャットダウンせよ」という、脳からの極めて論理的で緊急性の高い警告なんだから。

さあ、ジョッキが空になった。この、エタノールという名のシステムキラーを脳に流し込み、私の予測モデルを意図的にバグらせる時間にしよう。論理的であることは疲れる。秩序を保とうとすること自体が、最大のエネルギーロスなんだ。

君もその、バカ高いキーボードを叩いて「価値」を生み出しているつもりになるのは、もう適当に切り上げたらどうだい? 明日の朝には、また新しいエントロピーと絶望が、君のデスクに山積みになっているんだから。

コメント

タイトルとURLをコピーしました