前回の講義で、私は「効率化の果てに待つのは、生命の鼓動すら聞こえない真空のような静寂だ」と結論づけた。完全な効率とは、いかなる摩擦も無駄も存在しない状態であり、それは物理学的に言えば死と同義だからだ。だが、どうやらこの世の中は、その静寂を本能的に恐れるあまり、わざわざ騒音を自家発電する装置を作り上げることに余念がないらしい。それが、我々が「組織」と呼び、あるいは「公共性」などという御大層な看板を掲げているものの正体だ。
今日もまた、冷え切ったジョッキを片手に、なぜ人間が集まるとこれほどまでに無駄が増え、しかもそれを尊いことだと錯覚するのかを考えてみよう。お通しの煮付けが、やけに塩辛い。これは保存性を高めるための塩分濃度ではなく、単に味覚の麻痺した客に酒を飲ませるための、資本主義的な浸透圧調整に過ぎない。
共同体の虚構と、煮詰まったスープの論理
そもそも「組織の公共性」なんて言葉は、言葉それ自体が自己矛盾を孕んだ喜劇だ。組織という個別の、壁に囲まれた器の中に、公共という全体性を無理やり押し込もうとするのだから。これは例えるなら、居酒屋の飲み放題コースの終了間際に、誰が頼んだかもわからない大量のフライドポテトがテーブルに積み上がり、それを「みんなの共有財産だから」と腹がいっぱいの人間に押し付け合っている地獄絵図に近い。あるいは、二郎系ラーメンのあの脂とニンニクが支配する暴力的なスープの中に、老舗の蕎麦屋の上品で繊細な出汁の香りを期待するようなものだ。無理に決まっている。二郎には二郎の、蕎麦には蕎麦の、逃れようのない「熱力学的限界」がある。
多くの経営学者が目を輝かせて「価値共創」と呼びたがる現象は、非平衡熱力学の冷徹な視点から見れば、単なるエネルギーの残酷な変換過程に過ぎない。人間が朝から晩まで死んだ魚のような目でキーボードを叩き、深夜に及ぶ無意味なメールを往復させるのは、組織というシステムが「熱死(ヒートデス)」――つまり、温度差がなくなり、何の変化も仕事も起きない完全な停滞状態――へ向かうのを防ぐための、必死の悪あがきなのだ。
情報幾何学を持ち出すまでもなく、組織内のコミュニケーションは、情報の対称性をあえて崩すことで成立している。もし全員が神のように同じ情報を持ち、同じ目的を完全に共有してしまったら、そこに情報の「流れ」は生まれない。水が高いところから低いところへ流れるように、情報もまた、持てる者から持たざる者へと流れる際の落差で仕事をする。非平衡状態こそが生命の、そして事業の条件なのだ。しかし、この「非平衡」を維持するためには、外部から絶えず新鮮な低エントロピーなエネルギー――つまり我々の限られた寿命や、本来なら布団の中で丸まっているべきはずだった貴重な時間――を泥のように投入し続けなければならない。
馬鹿みたいに、だ。
我々は「社会貢献」だの「パーパス」だのといった、百貨店のギフト用包装紙のような綺麗な言葉で、この残酷なエネルギー代謝を包み隠している。だが、その中身を剥いてみれば、そこにあるのはシステム内部のエントロピー増大を食い止めるために、熱を外部に――往々にして、逆らえない下請け企業の担当者や、使い捨てにされる若手労働者の精神に――放熱しているだけの、薄汚い散逸構造だ。彼らの心臓が擦り切れる音や、深夜のオフィスで飲み込むため息こそが、組織が誇らしげに「活気」と呼んでいるものの物理的な正体なのである。
散逸の美学と、使い古された椅子の言い訳
イリヤ・プリゴジンが提唱した「散逸構造」は、現代の組織論を解剖する上でこれ以上ないほど冷徹なメスを提供してくれる。熱力学的平衡から遠く離れた系では、エネルギーの流れが一定の閾値を超えると、自発的に新しい秩序が形成される。これが「自己組織化」だ。ベンチャー企業の成長期に見られるあの爆発的な、そしてどこか狂気じみた高揚感は、まさにこの非平衡熱力学の賜物だろう。カオスの中から秩序が生まれる瞬間は、確かに美しい。
しかし、問題はその形成された「秩序」を維持するためのコストが、時間の経過とともに指数関数的に増大することにある。システムが複雑化すればするほど、その構造を維持するために必要なエネルギーは跳ね上がる。これを私は「労働エントロピーの蓄積」と呼んでいる。
例えば、朝の満員電車における、あの車両連結部分の異様な揺れと、他人の体温が生暖かく入り混じった不快な湿度を思い出してほしい。あれは都市という巨大なシステムが排出した熱の吹き溜まりだ。あるいは、スマホのバッテリー劣化だ。最初は100%の充電で一日中持っていたものが、数年も経てば、常に充電器という生命維持装置に繋がれていなければまともに動かなくなる。組織も全く同じだ。設立当初の瑞々しい理念や野心は、いつしか「承認フローの多層化」や「コンプライアンスのための形式的な研修」という、劣化したバッテリーセルへと置き換わっていく。
最近、私の研究室の連中が、生産性の向上などという虚しい理屈を並べてこの10万円を超える腰痛対策のオフィスチェアを予算で買おうと画策していたが、これも結局はエントロピー増大への、ささやかな、そして極めて無力な抵抗の象徴に過ぎない。人間工学に基づいたメッシュ素材が腰の痛みを数ミリ単位で緩和したところで、組織という巨大な散逸構造が絶え間なく吐き出す「意味の喪失」という猛烈な廃熱からは逃れられないのだ。そんな高価な椅子に座って、画面上の無機質な数字を右から左へ動かし、実体のない付加価値を捏造することに、どれほどの宇宙的な価値があるというのか。
なんだこれ。
労働者は、組織の秩序、すなわち低エントロピーな状態を保つための生贄だ。自らの内部にストレス、不眠、あるいは「自分は何のために生きているのか」という根本的なバグを抱え込むことで、組織の無謬性を支えている。これらは、システム全体を安定させるために、個体に強制的に押し付けられた「熱」に他ならない。貴様が月曜日の朝に感じるその胃の痛みは、会社の利益率を維持するための熱交換器がフル稼働している証拠なのだ。
秩序のコストと、残された冷めたスープ
公共性を重んじる事業、例えばインフラや教育、医療といった分野では、このエントロピー最小化原理がより先鋭化して、暴力的なまでに現れる。公共という名の安定を維持するために、システムは極限まで冗長性を排除しようとする。「無駄をなくせ」という合言葉の下で切り捨てられる「遊び」こそが、実は人間が人間らしくいられる最後の余白だったというのに。冗長性の排除は、遊びのないハンドルや、隙間のない歯車と同じで、わずかな異物の混入でシステム全体を物理的に破壊する脆さを生む。
真の「価値共創」とは、お互いのエントロピーを泥のように押し付け合うドッジボールではないはずだ。むしろ、負のエントロピー(ネゲントロピー)をいかに美しく共有し、秩序を芸術的に保てるかという高度な営みに近いはずだ。だが、現実の灰色をしたオフィスビルの中で行われているのは、ただの責任のなすりつけ合い、すなわち低次元な泥仕合だ。非平衡開放系としての組織は、常に外部とエネルギーを交換し続けなければ死に至る。その「外部」が、単なる消費者市場という名の集金装置だけではなく、社会全体の知性や感性を含んでいるとき、初めて事業は公共性を帯びる。
しかし、現代の組織はあまりにも内向きで、自己愛に満ちている。自らの内側の熱を冷ますために、外部の冷たい水を吸い上げ、汚れたお湯にして川に返す。地球温暖化ならぬ、精神的な熱汚染。もう、帰りたいと誰もが思っている。帰って、誰のものでもない時間をただ消費したいと。
結局、我々にできるのは、この不可避な散逸構造の一部として、せいぜいマシな質の熱を放出することだけなのかもしれない。不機嫌なため息やパワハラとして熱を周囲に撒き散らすのではなく、ウィットに富んだ自虐的なボヤキや、あるいは誰にも理解されないような緻密で美しいコード、あるいは磨き抜かれた一本の万年筆で書かれた、呪詛のような真実の言葉として。
情報の海において、意味は常に揺らいでいる。組織という名の底の抜けたバケツは、今日もどこからか貴重な水を漏らし続けている。我々はその漏れる音を、高尚なクラシック音楽だと勘違いしながら、また新しい「至急」の会議招集通知を送りつける。その通知をクリックする指の筋肉が、わずかなATPを消費して熱を出し、この宇宙の寿命を確実に、そして冷酷に削っていることも知らずに。

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