羽虫の羽音、あるいは生産性について
「生産性の向上」などという、耳元で羽音を立てる不快な羽虫のような言葉を、一体いつまで有り難がっているつもりだろうか。湿気た提灯が揺れる馴染みの店で、ひび割れたコップに注がれた安酒の、その頼りない表面張力を眺めながら、私はこの「労働」という名の、あまりにも非効率な熱の浪費について独りごちている。隣の席では、くたびれたスーツを着た男が上司の悪口を肴に、これまた色の薄いビールを喉に流し込んでいる。これが現実だ。
そもそも、我々が日々、視神経をすり減らして机にかじりつき、行っている作業とは一体何なのか。これをビジネス書にあるような「価値の創造」などという、お花畑のような言葉で粉飾するのは、あまりに救いがたい。物理学の冷徹な視座に立てば、実態はもっと卑俗で、もっと惨めなものだ。それは、刻一刻と腐敗していく生ごみのような日常の中で、辛うじて自分の周囲にだけ、あるいは冷たいモニターの向こう側の数キロバイトの領域にだけ、「秩序」という名の虚像を維持し続ける、絶望的な悪あがきに過ぎない。
我々は外部から、半額シールの貼られたコンビニ弁当や、得体の知れない添加物まみれの栄養ドリンクという名のエネルギーを摂取し、それを代謝して不快な汗と熱を放出しながら、Excelのセルを埋めていく。放っておけば、部屋には埃が積もり、洗濯物は山になり、貯金は底をつき、体は老いて醜く垂れ下がる。万物は例外なく「最悪の無秩序」へと向かう。この宇宙の残酷なルールに抗い、一瞬だけ形を保つ濁流の渦潮。イリヤ・プリゴジンがかつて、そんなものに「散逸構造」などという立派な名前を与えてしまったせいで、我々はこの終わりのない空虚な水掻き作業に、何らかの高尚な意味があると勘違いしてしまったのだ。
馬鹿みたいに。
冷徹な蕎麦と、血の通わぬ正論
現代の、この血の通わぬ無機質な正論が支配する戦場において、定型的な業務、つまり「誰がやっても同じ結果が出る作業」に、もはや血の通った人間が介在する余地はない。かつては人間が血尿を出しながら計算尺を叩き、腱鞘炎に怯えながら書類を捌いていた領域を、今ではどこぞのシリコンでできた冷徹な回路が、瞬きする間もなく片付けてしまう。
それら、電気信号だけで動く思考の模倣体は、極めて清潔で、かつ徹底的に残酷だ。彼らには迷いがない。上司の口臭に顔をしかめることもなければ、昨晩飲みすぎた安ハイボールのせいで、朝から内臓が悲鳴を上げ、駅のトイレにこもるような無様な真似もしない。彼らは入力を、熱力学的な最短経路で出力へと変換する。例えるなら、駅前の立ち食い蕎麦屋の、あの伸びきった「かけ蕎麦」だ。過不足なく、迅速に、決められたカロリーを胃に流し込む。そこには情熱もなければ、料理人のこだわりといった不純物も一切存在しない。
この徹底的な効率化の果てにあるのは、完全な結晶化だ。エラーのない、予測可能な、そして徹底的に「冷たい」墓場のような秩序。我々が心酔する「最適化」とは、突き詰めれば人間という不純物を排し、世界をこの無機質な結晶に作り変える、壮大な自殺行為に他ならない。
反吐が出る。
不純物としての脂、あるいは美学
しかし、ここで滑稽な逆転現象が起きる。効率化が進めば進むほど、そこに残る「人間の取り分」は、より一層ドロドロとした、不合理で、生理的な嫌悪感を伴う色彩を帯びてくる。機械じかけの正論が完璧な正解を出し続ける世界で、唯一の価値とは、その計算式を鼻で笑い、「今日はなんとなく気分が悪いから、全部やり直せ」などという、システムにとっての致命的な「ノイズ」を撒き散らすことなのだ。
この「ノイズ」こそが、実のところ、我々の生活を辛うじて人間らしいものに繋ぎ止めている。これを「意味的ゆらぎ」などと呼ぶのは、いかにも大学教授が書きそうな、小綺麗な嘘だ。その正体は、もっと野蛮で、もっと手に負えない衝動である。
例えば、二郎系のラーメンを思い浮かべてほしい。あの、正気の沙汰とは思えないニンニクの暴力、物理法則を嘲笑うかのような背脂の堆積、そして食後の猛烈な後悔と、翌日まで続く胃もたれ。「健康管理」や「効率的な栄養摂取」という、冷徹な秩序の観点から見れば、あれは明白なバグであり、排除されるべきノイズだ。しかし、あの暴力的な不合理がなければ、我々は単なる「蕎麦を処理するだけのタンパク質の塊」に成り下がってしまう。あの、どんぶりの底に沈んだ不条理な脂の中にこそ、我々の生命としての輝き、あるいは、どうしようもない「業」が宿る。
結局、我々が守るべきは、その論理的な思考能力などではない。むしろ、どれだけ教え込まれても論理を逸脱してしまう弱さや、他人に理解されない、金にもならない無意味なこだわりにある。
無駄への投資、抵抗の形
最近、職場のデスクで見かけた光景が目に焼き付いて離れない。ただのアルミの板を曲げただけのノートパソコンスタンドが、私の数日分の食費を遥かに超える価格で鎮座していた。機能的には電話帳を積み上げれば代用できるはずなのに、人々はそこに「美学」という名の、物理的には全く無意味な付加価値を見出し、金を払う。その奇妙な金属の角度に、何かしらの救いを見出しているかのように。
あるいは、ただ液体を温度変化から守れれば十分なはずの真空断熱タンブラーに、特定のブランドロゴが刻印されているだけで、人々は狂ったように対価を差し出す。中に入っているのは、水道水かもしれないというのに。
これこそが、熱力学的な効率を根底から否定した、人間特有の「散逸」の形だ。機能という名の低エントロピーな檻から逃げ出し、無駄、虚飾、そして「見栄」といった、物理的にはゴミ同然のノイズを、敢えて「意味」として定義し直す。この不条理で高価な変換プロセスこそが、冷徹な演算回路には決して真似できない、生命としての、最後の悪あがきなのだ。
腰が痛い。
我々の役割は、無機質な知性が整地した平原に、敢えて汚物のような石を投げ込み、波紋を立てることに集約されていく。その波紋が、次の時代の新しい秩序を作るかもしれないし、単なるゴミとして処理されるかもしれない。しかし、その不確実性こそが、絶えず腐敗し続ける我々人間が、宇宙の熱死に対して唯一提示できる抵抗手段なのだ。
効率化を極めた先で、我々は「いかに正しく、贅沢に、無駄を出すか」という、究極に矛盾した苦行に直面することになる。それはもはや労働ではなく、一種の、救いのない祈りに近い。
さて、このコップの中の安酒も、私の体温を無慈悲に奪い、室温という名の平凡な死へと向かおうとしている。熱力学の法則には、誰も逆らえない。そろそろ、この無意味な思索を切り上げ、もっと物理的で、もっと差し迫った代謝プロセス、すなわち「追加の注文」へと移行することにしよう。店員を呼ぶためのベルを鳴らす、その指の震えすらも、この宇宙を形作る重要な「汚点」であると信じて。

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