冷めた蕎麦と脂の海
前回、我々は「生産性」という名の、実体のない亡霊について語り合ったんだったか。結局のところ、あれは伸び切って冷え切った「かけ蕎麦」をいかに速く、いかに大量に胃袋へ流し込むかという、貧乏臭くも浅ましいタイムアタックに過ぎない。速く啜れば啜るほど喉の粘膜は火傷し、胃袋は消化不良の重たい虚無感で満たされるだけだ。さて、その延長線上にあるのが、今の世を我が物顔で跋扈する「事業の公共性」とか「組織の進化」とかいう、耳当たりだけは良いが、致命的に中身の欠落した言葉遊びだ。
この場末の居酒屋の隅で、誰が使ったかも知れぬ湿ったおしぼりを弄りながら考えてもみたまえ。なぜ企業は、あたかも高潔な聖職者のような顔をして「社会貢献」だの「パーパス」だのを語るのか。あれは、二郎系ラーメンのギトギトした背脂の海に、申し訳程度の茹でたモヤシを載せて「これは実質、野菜サラダだ」と言い張るデブの論理と何ら変わらない。血管を詰まらせるほどの強欲とコレステロールを、「公共性」という名の薄っぺらなヴェールで覆い隠しているに過ぎないのだ。
だが、この茶番劇を「情報幾何学」という冷徹なメスで解剖すると、少しだけ面白い、そして絶望的な風景が見えてくる。
座標という名の拷問器具
我々が「労働」と呼んでいる営みは、統計モデルにおけるパラメータの微調整という名の、終わりなき「身の削り出し」に他ならない。甘利俊一が提唱した情報幾何学の視点に立てば、組織とは確率分布が成す「多様体」の上を這いずる、盲目的な蛆虫の群れのようなものだ。
君が明日も、湿った他人の体温と安っぽい整髪料の臭いを押し付けられながら満員電車でオフィスへ向かうのは、組織という確率分布の「フィッシャー情報量」を最大化するためだ。フィッシャー情報量とは、簡単に言えば「あるパラメータが、どれだけ敏感に分布の形を変えられるか」という冷酷な感度指標だ。経営側にとって重要なのは、君という個体が「どれほど効率よく、かつ代替可能な形で痛みに反応するか」だけである。その感度が、事業の「公共性」などという歪んだ重力場を形成する。
君の流す冷や汗、削られる睡眠時間、本来なら子供と公園で遊んでいるはずだった週末の午後。それらすべてが、多様体上の接空間における「基底ベクトル」として収奪される。フィッシャー計量は、君の生命時間を、経営者が投資家にプレゼンするための「変化率」へと変換する、極めて高効率な換金装置だ。
結局のところ、経営者が語る「理念」や「ビジョン」は、情報幾何学における「e-座標(指数型座標)」、すなわち、この世に物理的には存在しない「理想の直線」を引くための定規に過ぎない。一方で、現場で血を吐きながら、Excelのセルの色が #FF0000 になることに怯え続ける労働者の現実は「m-座標(混合型座標)」だ。この二つは、双対平坦空間という奇妙な鏡合わせの世界で、決して交わることなく対立している。
経営者が「社会の持続可能性を!」と高らかに叫ぶとき、彼は平坦な空間における最短距離の移動を夢見ている。しかし、労働者がその直線を歩まされるとき、そこにはフィッシャー計量という名の「勾配」が、1キロの米を買うのにも躊躇するような経済的重圧となって立ちはだかる。それは、スマホのバッテリーが劣化し、100%充電したはずなのに、取引先に着く頃には20%になっている、あの理不尽で絶望的な消耗そのものだ。どれだけ美辞麗句を重ねても、熱力学的エントロピーの増大、すなわち君の髪が薄くなり、肌から艶が失われ、眼球が濁っていく過程からは、何人たりとも逃れられない。
歪曲された脊椎
組織が「進化」と称して組織改編やデジタルトランスフォーメーションを繰り返すのは、情報幾何学的に見れば、カルバック・ライブラー情報量(KLダイバージェンス)を最小化しようとする、無様な「もがき」に過ぎない。現在のクソみたいな泥沼の現実(P)を、経営者が週末のゴルフ中に思いついた妄想の理想(Q)に近づけようとする、距離の測定だ。
だが悲しいかな、この「距離」は残酷なほど非対称である。経営者の目から見た現場までの距離は、地図上の数センチに過ぎないが、現場から見た経営層までの距離は、光年単位の断絶がある。この非対称性が、組織の中に致命的な「歪み」を生む。その歪みを、精神論や「チームワーク」、あるいは「エンゲージメント」という名の安っぽい接着剤で無理やり補正しようとする力、それが我々を摩耗させ、心を壊す「労働」の正体だ。
先日、慢性的な腰痛に耐えかねて、座るだけで脊椎の崩壊を食い止めると噂のアーロンチェア リマスタードを眺めていたのだが、あの25万円もする「延命装置」の価格を見て、私は確信した。あれは家具ではない。フィッシャー情報量の重圧から肉体を隔離し、物理的な重力と情報幾何学的な勾配の双方から、無理やり身を引き剥がすための高価な「絶縁体」なのだ。一ヶ月分の給料を優に超える金額を、ただの「椅子」に投じるという行為は、もはや労働というシステムから逃げ出すための「身代金」を支払っているに等しい。そうまでして我々は、壊れかけた家畜のような脊椎を、明日もまた屠殺場(オフィス)へと運ばねばならないのか。
人間が抱く「やりがい」や「自己実現」といった感傷は、脳内の神経伝達物質が、情報の処理効率を高め、より多くのタスクを処理させるために分泌する、ただの「潤滑油」だ。もっと言えば、システムの誤動作を防ぐための「バグ」である。進化の過程で、より効率的に搾取される個体を選別するために実装された、残酷な報酬系。それを「公共性」という言葉でコーティングし、あたかも高尚な目的があるかのように錯覚させるのは、もはや一種の宗教的詐欺、あるいはマルチ商法の極北と言ってもいい。
散逸する生
事業の公共性を定義するものは、倫理でも正義でも、ましてや愛でもない。それは、その組織がいかに効率よく、外部環境の複雑な情報を、従業員という名の「素子」の内部構造へと、焼き付け(エンコーディング)できるかという、純粋に物理的・熱力学的な処理能力に過ぎない。
双対平坦空間において、直交射影によって情報が圧縮されるとき、必ず「余剰」が発生する。その余剰こそが、本来ならば我々が安酒を煽り、泥のように眠り、誰にも邪魔されないはずの「生」の断片だった。しかし、現代の組織進化は、その端切れのような余剰さえもフィッシャー計量の中に組み込み、すべてを利益のパラメータとして刈り取ろうとする。
君が深夜、誰もいないオフィスで冷めたカップ麺を啜りながら、虚ろな目でブルーライトを見つめているとき、君の意識は多様体上の特異点へと吸い込まれている。そこでは、公共性と私利私欲、生と死、幸福と絶望の区別は消失し、ただひたすらに情報が「散逸」していく。帰りたい。その一念さえも、デジタルの藻屑となって消えていく。
結局、我々に残されたのは、この歪んだ空間の中で、いかに「賢明に手を抜くか」という、惨めな生存戦略だけだ。組織がどれだけ「進化」しようとも、我々の脊椎、網膜、そして胃袋は、数万年前のサバンナを走り、生肉を食らっていた頃の仕様から、1ビットたりともアップデートされていない。25万円の高級な椅子に座って絶望しようが、公園の薄汚れたベンチでワンカップを煽りながら空を見上げようが、情報幾何学的な座標の収束先は、等しく「虚無」なのだ。
理論上、最適な組織とは、フィッシャー情報量がゼロになる状態、つまり、何の変化も起きず、誰も何もせず、ただそこに存在し続けるだけの「石ころ」のような集団であるはずだ。それこそが究極の公共性であり、組織進化という名の茶番の終着駅だ。
そこには、二郎系ラーメンのギトギトした脂も、経営者の暑苦しく中身のない演説も、劣化したスマホのバッテリーに怯える日々も存在しない。ただ、冷徹な数理だけが、墓標のように静かに横たわっている。
おっと、店員が不機嫌そうにラストオーダーだと告げに来た。この不毛な議論の続きは、また次回の「意味のない給料日」の後にでも。

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