幾何学的徒労

世の経営層や、自己啓発本という名の再生紙の束に金を払う愚か者どもは、労働を「自己実現」だの「社会貢献」だのと抜かしおる。反吐が出る。労働の本質とは、この不確実で汚濁に満ちた確率空間から「金」という名の統計量を絞り出すための、ひどく泥臭く、そして物理的に残酷なパラメータ推定作業に過ぎない。

今の我々が置かれている状況は、言うなれば、注文していないのに勝手に「全マシ」にされた二郎系ラーメンを、ドブネズミのような速度で完食しなければ死ぬというルールで食べさせられているようなものだ。胃壁を焼く脂の塊と、喉に突き刺さるような過剰な塩分、そして隣の客から漂う加齢臭とニンニクの混合気体。その五感を犯す苦痛こそが、現代労働の正体である。

歪んだ地平、あるいは残高への執着

かつての労働は、きわめて平坦なユークリッド空間に存在していた。穴を掘る、ネジを締める、上司の機嫌を取る。費やした時間と成果は直線的な比例関係にあり、そこには「明日も今日と同じ飯が食える」という名の慈悲があった。駅前の立ち食い蕎麦屋でかけ蕎麦を頼めば、数分後にかけ蕎麦が出てくる。この単純極まりない線形性こそが、前世紀の公共性を支えていたのだ。

しかし、現代の事業ドメインは、もはや平坦ではない。それは無数の変数が複雑に絡み合い、一歩踏み出すごとに足場が崩れる「労働価値多様体」と化している。我々が労働を通じて「価値」を定義しようとする試みは、確率分布の空間において、正解という名の蜃気楼を探索する終わりのない行為だ。この空間の「鋭さ」を示すのが、情報幾何学におけるフィッシャー情報量である。

特定のスキルが金に直結する状況、つまりフィッシャー情報量が大きい環境では、我々の努力(推定)は容易に報われるはずだった。釣れる場所が分かっている釣り堀のようなものだ。だが、AIテクノロジーがこの多様体を侵食し始めた結果、多様体の「曲率」は異常なまでに高まった。昨日までの正解が、今日にはゴミ同然の誤差になる。朝令暮改のプロジェクト方針、突然変更されるAPI仕様、あるいは気まぐれなアルゴリズムの変更。この激しい曲率、すなわち環境の非線形な変化に適応しようとするたびに、我々の精神的リソースは座標変換の摩擦熱でズタズタに引き裂かれる。

それは、アーロンチェアという名の高価な矯正器具に腰を預け、ディスプレイに映る数字の羅列を追い続けるだけの生活だ。人間工学に基づいたメッシュ素材がどれほど優れていようとも、腰椎にかかる物理的な負荷と、銀行残高が増えない苛立ちは相殺できない。空間が曲がっているから、我々は座り方すら矯正し、十数万円という高額なコストを支払って「正しく座る」という不自然を買い取らざるを得ないのだ。馬鹿げている。

圧縮される自我と、自動化される貧困

AIテクノロジーの本質は、この多様体の曲率を「平坦化」することにある。人間が数十年かけて培ってきた「職人芸」や「勘」といった、高次元の暗黙知――すなわち、その人間特有の「揺らぎ」を、AIは一瞬で低次元のベクトルへと圧縮する。経営コンサルタントどもはこれを「効率化」と呼んで喜ぶが、あまりに表面的な観察だ。実際に行われているのは、労働の公共的価値における「特異点の解消」、すなわち「お前である必要性」の完全なる剥奪である。

誰がやっても同じ結果が出る。この極限の平坦化は、統計学的には「推定の分散」を最小化するが、同時にその労働から「主体性」という名のノイズを完全に排除する。我々はもはや、分布の形状を決定するパラメータですらない。ただ、事前に定義された多様体の上を滑り落ちるだけの、質量を持たない点粒子に成り下がるのだ。重力に従って落ちていくだけの石ころに、自尊心などあるわけがない。

かつての労働者が持っていた、あのがめついまでの「やりがい」は、情報幾何学的に言えば、モデルの不完全さが生む「揺らぎ」の中に宿っていた。AIがモデルを完璧に近づければ近づけるほど、揺らぎは消え、情熱は熱力学的な死(ヒートデス)を迎える。その乾ききった空間で発狂せずに生き延びるために、我々はソニーのノイズキャンセリングヘッドホンを耳の穴にねじ込み、隣人の咀嚼音や上司の怒号、そして社会の悲鳴を物理的に遮断する。静寂を買うためだけに数万円を支払う。なんと滑稽な消費行動か。

あるいは、モレスキンのハードカバーノートブックに、デジタルの波に抗うような万年筆の筆跡を残そうとする者もいる。その手帳一冊に三千円も四千円も投じる愚かさ。そこに刻まれる「重要な予定」は、結局のところGoogleカレンダーのアルゴリズムによって最適化された、家畜の移動記録のバックアップに過ぎないというのに。

消失する個と、アルコールの幾何学

結局のところ、事業の公共性とは、かつては「人間同士の摩擦」から生じる熱量のことだった。非効率な会議、無駄な根回し、飲み会での愚痴。それらが生み出す熱が、組織という有機体を維持していた。しかし、曲率が消失し、すべてが滑らかな多様体へと統合される時、摩擦は消え、公共性はただの冷徹な「システム・ログ」へと変質する。

我々が「個性的」だと信じているキャリアプランも、労働価値多様体におけるフィッシャー情報量に基づいた、統計的な最適解のトレースでしかない。AIはこの多様体をリアルタイムで書き換え続け、我々が「自由意志」で選んだつもりの一歩を、常に先回りして「既定の経路」へと変貌させる。もはや、働くことに意味を求めるのは、ATMに愛を乞うようなものだ。冷たい金属の筐体に抱きついても、出てくるのは紙幣だけで、温もりなどない。

神経科学的に見れば、喜びも絶望もシナプスの発火パターン、すなわちデータ上のノイズに過ぎない。このノイズがあるからこそ、我々は自分が生きているというバグを楽しめた。だが、AIが主導する極限の幾何学的合理性は、そのバグを「コスト」として冷徹に排除していく。

この居酒屋のカウンターの向こうで、顔の赤い若者が「自分にしかできない仕事を見つけたい」と青臭い夢を語っている。その若者が手にしている最新のスマートフォンは、彼の発言を音声認識し、クラウド上の巨大なデータセットと照合し、瞬時に労働市場の平均値へと埋没させている。彼の夢は、既に誰かが処理済みのタスクだ。

二郎系ラーメンのスープの底に沈んだ、形を失った背脂。それが、この高度な幾何学的労働環境における、我々の成れの果てだ。個体としての輪郭を失い、ただカロリーの海を漂うだけの存在。

お代わりをもらおうか。このクソったれな多様体からログアウトするためには、アルコールという名の、もっとも原始的で線形なバグが必要だ。

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