汚濁の代謝

汚濁の代謝

経営学者たちが好んで口にする「事業継続(BCP)」という概念は、物理学的な視座から解剖すれば、単なる集団幻想に過ぎない。彼らは組織を、風雪に耐え抜く堅牢な石造りの城塞か何かだと思い込んでいるようだが、その実態は川の淀みに溜まった汚泥の渦に近い。ノーベル賞物理学者イリヤ・プリゴジンが提唱した「散逸構造」という言葉を借りれば、生命や組織といった秩序あるシステムは、外部からエネルギーを貪り食い、体内でエントロピーという名の「排泄物」を生成し、それを周囲に垂れ流すことでのみ、かろうじてその形を保っている動的な不均衡状態である。

胃袋の独裁と黄色い看板

つまり、会社が生き残るということは、周囲を無秩序に陥れる権利を独占し続ける行為に他ならない。高尚な経営理念や「パーパス」などという横文字が飛び交う会議室を見るたびに、私の脳裏には、都内の裏路地で異様な熱気を放つ黄色い看板のラーメン屋、いわゆる「二郎系」のカウンターの光景がフラッシュバックする。

彼らは「食事」をしているのではない。「代謝」の実験台になっているのだ。丼の縁まで盛り上がった、白濁した脂と過剰な炭水化物の塊。強烈なニンニクと化学調味料の刺激臭が鼻腔を焼き、換気扇の油汚れが滴り落ちそうな店内で、若者たちは無言でその「質量」を胃袋へと押し込む。額から吹き出すのは汗と呼ぶにはあまりに粘度の高い不純な液体であり、彼らの内臓は限界を超えた負荷に悲鳴を上げている。それでも彼らが箸を止めないのは、食欲という生理的欲求のためではなく、「完食」という名の歪んだ秩序を維持し、丼を空にするという達成感の奴隷になっているからだ。

組織が「成長」と称して市場から資本を吸い上げるプロセスも、このグロテスクな摂食行動と何ら変わらない。市場という名の混沌から、金と情報という名のカロリーを過剰に摂取し、それを社内という閉鎖的な消化器官で咀嚼する。その過程で生み出されるのは、誰にも読まれない分厚い報告書や、生産性の欠片もない定例会議、そして社員同士の嫉妬や足の引っ張り合いという膨大な摩擦熱だ。これら無意味な代謝産物を「成果」として体外へ排出し続けなければ、組織は自家中毒を起こして死に至る。翌朝のトイレで激しい腹痛と後悔に襲われる若者と同様、決算期に数字合わせという名の下痢に苦しむのが、事業継続の実体である。

搾取によって編まれる秩序

組織図という名の幾何学的な美しさは、誰かの生命力を犠牲にして初めて成立する。秩序とは自然発生するものではなく、常に「低エントロピー状態」を強制的に維持するためのコストを要求するからだ。優秀な社員が空気を読み、阿吽の呼吸で業務を回しているとき、彼らは決して楽しんでいるわけではない。満員電車で隣の男の汗ばんだ肘が脇腹に食い込む不快感に耐え、赤の他人の体温と口臭が混じり合う密室で正気を保とうとするのと同様、彼らは自らの神経をすり減らし、精神の自由エネルギーを枯渇させることで、組織という名の巨大な怪物の皮膚を滑らかに保っているに過ぎない。

この残酷な熱力学の法則は、物理的な肉体にも等しく適用される。例えば、私が今、この原稿を書くために全体重を預けているアーロンチェアを見るがいい。人間工学の極致だか何だか知らないが、たかだか数十キロのタンパク質と水分の塊を重力から守るためだけに、20万円を超える法外なコストが投じられている。これは贅沢品ではない。私の脊椎が、長時間の労働という重圧に耐えきれず、自重で崩壊しそうになるのを、金で買った化学繊維のメッシュと金属フレームで強引に縛り付けているだけの「敗北の象徴」だ。

この椅子に支払われた金額は、私の腰椎が悲鳴を上げ、椎間板が押し潰されるという物理的な崩壊(エントロピー増大)を、金の力で一時的に遅延させているに過ぎない。経営者が「快適なオフィス環境」や「福利厚生」に投資するのも全く同じ理屈だ。それは社員への愛などではなく、過酷な労働環境によって摩耗し、今にも暴発しそうな従業員の精神構造を、金という名の補強材で無理やり繋ぎ止めているだけの、極めて冷徹な延命措置である。部下に残業代を払わず、代わりに「やりがい」という名の麻酔を打って酷使するブラック企業の論理と、私の腰を支えるこの高価な椅子の間に、物理的な違いなど存在しない。

液漏れする未来

結局のところ、あらゆる組織活動は、宇宙の基本法則である熱力学第二法則に対する、無謀で無意味な反逆である。どれほど精巧に組み上げられたシステムも、最終的には均質な泥の中へと溶け出し、死に至ることが約束されている。「持続可能な成長」などという言葉は、賞味期限が切れて変色し始めたコンビニ弁当を、「まだ食える」と言い聞かせながら口に運ぶ狂気と変わらない。

情報の代謝速度が環境の変容速度に追いつかなくなった時、組織の崩壊は静かに、しかし確実に始まる。それは劇的な爆発ではない。子供の頃、おもちゃ箱の奥底で忘れ去られた懐中電灯の中で起きていた、あの陰惨な現象を思い出せばいい。乾電池が液漏れを起こし、強酸性の液体が端子を腐食させ、結晶化した白い粉が内部を覆い尽くす。かつてエネルギーを供給していたはずの源泉が、いまや周囲を汚染するだけの有害物質へと変わり果てる。

組織もまた、マニュアルや慣習、あるいは「創業者の教え」という名の内部抵抗が蓄積されれば、外部からどれほど資金という電圧をかけても、もはや電流は流れず、ただ熱を発して内部から腐っていくだけだ。我々が目にしている大企業の多くは、すでに機能不全に陥りながらも、既得権益という名の分厚い被膜によって辛うじて形を保っているだけの、巨大な液漏れ乾電池に過ぎない。

明日もまた、満員電車という名の家畜運搬車に揺られ、死んだ目をした男たちが都心へと運ばれていく。彼らは自らの時間を切り売りし、その対価として得た僅かな給与で、また次の日も働くためのカロリーを摂取する。この不毛な循環こそが「事業継続」の正体であり、そこには救いも、進化も、希望もない。ただ、エントロピーの増大に抗うための、虚しく、醜悪で、果てしない徒労があるだけだ。

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