泥濘

前回は、労働という名の「自己家畜化」がいかにして資本の血肉に変換されるかという薄汚い話をしたが、今日はもう少しマシな話をしよう。おっと、店主、その安っぽい熱燗をもう一合頼む。徳利の底に溜まった澱のように濁った思考をほぐすには、これくらい雑なアルコールのほうが、組織という名の「幻想の多様体」を語るには丁度いい。

諸君、我々はなぜこれほどまでに「会議」という名の儀式に貴重な時間を溶かすのか。公共性という美名のもとに、数多の人間が集まっては「合意形成」という名の泥遊びに興じている。彼らはそれを「建設的な議論」と呼び、ホワイトボードに意味ありげなマトリクス図を描いて満足しているが、その実態は、満員電車の蒸れ返る不快感の中で、誰が先に降車ボタンを押すかを互いの眼球の動きだけで牽制し合うだけの、醜悪な静止画に過ぎない。空調の効きすぎた会議室で、誰かが咳払いをするたびに微細な飛沫が散り、それがプロジェクターの排熱で揺らぐ光束を横切ってキラキラと舞うのを、死んだ魚のような目で眺めている。それが現代のビジネスパーソンの肖像だ。

停滞

組織とは、個々の構成員が持つ「主観的な確率分布」という名の、身勝手な欲望の集積回路だ。誰が何を信じ、どの方向に進めば自分の評価が傷つかず、かつボーナスが上がるかという期待値。これらが複雑に絡み合い、一つの「公共性」という多様体を形成する。しかし、そこで行われる意思決定は、しばしば驚くほど非効率だ。甘利俊一氏らが提唱した情報幾何学の冷徹な視点から見れば、意思決定とは統計多様体上の点移動であり、本来は最短距離(測地線)を描くべき最適化問題であるはずだ。だが現実はどうだ。それは、閉店間際のスーパーマーケットで、半額シールを持った店員の後ろを金魚の糞のように追従し、惣菜コーナーを徘徊する、あの卑屈な群衆の心理的停滞と何ら変わりはない。

例えば、新しいプロジェクトの方向性を決める定例会議を思い出してくれたまえ。あれは、トッピングを盛りすぎてスープの味が全くわからなくなった「全部乗せの二郎系ラーメン」を、全員で箸をつつきながら「この背脂は健康に良いか悪いか」を真顔で議論しているようなものだ。麺は伸びきり、スープは冷め、豚肉の塊は酸化し始めているというのに、誰も「不味いから残そう」とは言わない。結局、誰も責任を取りたくないから、胃もたれを恐れて決断は先送りされる。情報のフィッシャー情報量(感度)は限りなくゼロに近づき、多様体はただの平坦な泥濘と化す。人間は「納得感」というバグを重んじるが、それは脳内報酬系が「とりあえず波風を立てずに済んだ」という安直なドーパミンを放出するのを、彼らが「正しい決定」と錯覚しているだけだ。神経科学的に言えば、それは単なる自由エネルギー原理における予測誤差の最小化であり、思考停止の別名に過ぎない。

馬鹿みたいに。

そんな無意味な合意を導き出すために、彼らはアーロンチェアにその肥大した臀部を深々と預け、100円のコンビニコーヒーを啜りながら、「社会的最適」などという実体のない雲を掴もうとしている。その椅子に座れば、座面のペリクル素材が自分の無能さまで分散してくれるとでも思っているのかね。ポスチャーフィットSLが仙骨をサポートしたところで、彼らの背骨のない日和見主義的な姿勢までは矯正してくれない。人間工学に基づいた最高級のワークチェアに座りながら、彼らが数時間かけて生産するのは「次回の会議のアジェンダを確認するための会議」という、虚無の再生産だ。いくら体圧を最適化したところで、彼らの空っぽな頭脳から出力される結論が、産業廃棄物以上の価値を持つことはないというのに。

曲率

ここで、もう少し情報幾何学の粋な話をしようか。統計多様体における「距離」とは、我々がユークリッド空間で使うような単純な直線距離ではない。KLダイバージェンス(カルバック・ライブラー情報量)であり、その空間の歪みを決めるのが「曲率」だ。これは、高級な霜降り肉を食った後に、その過剰な脂に胸焼けして、翌朝の胃の中がどれほどねじれ、歪んでいるかを測定するようなものだ。胃袋という空間が歪んでいれば、消化というプロセスは直進しない。

組織が「公共性」を意識すればするほど、その多様体の曲率は指数関数的に増大する。ステークホルダーという名の、金と権利とプライドに飢えた重力源が多すぎるのだ。営業部は売上を、開発部は納期を、法務部はリスク回避を叫び、それぞれの重力が空間を引き裂かんばかりに歪める。意思決定という名の「点」が移動しようとしても、空間が歪みすぎていて、目的地に辿り着く前にエントロピーの渦に飲み込まれる。これが「組織の重さ」の正体だ。意思決定の勾配が、あまりにも多くの変数のせいで複雑骨折を起こしている。冬場の劣化したスマホのバッテリーを見てみろ。残量が30%あると表示されているのに、負荷をかけた瞬間に電圧が降下して突然シャットダウンする、あの救いようのない絶望感だ。組織の論理的電圧は、合意という名の負荷に耐えきれず、肝心な局面でいつも沈黙する。

効率的な合意形成とは、本来、この多様体の曲率をいかに無視し、あるいは強引に平坦化(フラット化)するかにかかっている。独裁的なリーダーシップとは、幾何学的には「空間の強制的な平坦化」に他ならない。だが、現代の「丁寧な説明」や「心理的安全性」を求める社会では、あえて空間を歪ませ続け、全員を等しく疲弊させることが正義とされる。皮肉なものだ。幾何学的な最短経路(測地線)を歩もうとする者は、効率を求めるあまり「非人道的」だと糾弾され、歪んだ空間で迷子になり続ける者が「協調性がある」と評価されるのだから。

やってられないな。

蒸発

結局のところ、社会的最適とは何だろうか。パレート最適? ナッシュ均衡? いや、情報幾何学的に言えば、それは多様体上の「最も熱力学的に安定した死」でしかない。全ての情報の差異が消失し、均一な「無」に至ること。それが合意形成の究極のゴールだ。会議室のホワイトボードが真っ黒になるまで議論を尽くした後に残るもの、それは「誰も反対しなかった」という事実だけであり、「誰も賛成しなかった」という真実は闇に葬られる。

我々が「公共性」と呼んでいるものは、実は個人の意志が蒸発した後の、カピカピに乾いた皿に残った「ソースの跡」のようなものだ。誰も傷つかず、誰も責任を負わず、そして誰も得をしない特異点。そこに到達するために、我々は貴重な人生の時間を、まるでモンブランの万年筆で役所に出すだけの不要な書類にサインをするかのように浪費している。マイスターシュテュックの重厚なブラックレジンと14金のペン先が、その滑らかなインクフローで描くのが、未来へのビジョンではなく「経費精算書の訂正印」代わりの署名だとしたら、これほどの悲劇はない。

その万年筆のインクが、組織の血税であり、個人の寿命そのものであることに気づかないふりをして、彼らは書き続ける。あんなに高い筆記具を買って何を書くのかと思えば、結局は「謹んでお詫び申し上げます」という定型文か、「次回の会議の日程」だ。その滑稽な光景は、もはや芸術的ですらある。職人の手によって磨き上げられたペン先が、無意味な文字列を紙に刻むために摩耗していく。それが我々の文明の正体だ。道具だけが進化し、それを使う人間の魂は退化の一途を辿っている。

さあ、熱燗が冷めてきた。多様体の曲率だの、統計的推論だの、そんな高尚な理屈はこの安酒のアルコールと一緒に揮発させてしまえばいい。結局、明日になればまた諸君は、歪んだ空間の中で、永遠に届かない最短経路を追い求めるシシュポスの岩転がしに戻るのだ。重力に従い、ただ泥の中を這いずり回るのが、人間という生き物の「最適解」なのだから。

おっと、店主。会計を。この領収書は「研究費」で落とせるかな? 公共性の維持には、多少の不正という名の「潤滑油」が必要なんだよ。

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