「社会貢献」だの「企業の社会的責任(CSR)」だのという、耳触りのいい言葉が巷に溢れている。居酒屋の品書きにある『秘伝のタレ』と同じくらい、その中身は不透明で、継ぎ足しを繰り返した結果として何が溶け込んでいるのか判然としない。それでいて、誰の腹も壊さない程度の毒性を含んでいるから質が悪い。
我々が日々身を投じている組織というシロモノは、美辞麗句で飾られた神殿などではない。常に外部からエネルギーを喰らい続け、内部で汚濁した熱を発生させ、同時に排泄物を垂れ流し続けなければ自己を維持できない「散逸構造」そのものである。イリヤ・プリゴジンの理論をわざわざ引き合いに出すまでもなく、朝の満員電車に充満する他人の朝食の臭いと、湿りきったビニール傘が擦れ合う音を聞けば、熱力学がいかに残酷なまでに世俗を支配しているかが理解できるはずだ。ここは秩序ある庭園ではなく、崩壊を先送りするための焼却炉なのだ。
散逸:延命という名の浪費
そもそも、事業に「公共性」を見出すという行為は、物理学的に言えば「非平衡状態を維持するための言い訳」に過ぎない。
組織は放置すれば、熱力学第二法則に従って確実に死へ向かう。無秩序さ、すなわちエントロピーは最大化し、有益な仕事は消失し、最後には冷たい平衡状態へと至る。これを防ぐには、外部から「負のエントロピー」を絶えず注入しなければならない。それは投資家から巻き上げた金であり、情報であり、何よりも我々労働者の貴重な生命時間、そして家族との団欒を削って捻出した精神的リソースである。
これが労働の正体だ。我々はやりがいを求めているのでも、自己実現をしているのでもない。システムの温度を一定に保つための冷却装置、あるいは部品同士の摩擦で生じる火災を防ぐための潤滑油として、自らを摩耗させているに過ぎない。
馬鹿みたいに。
組織が拡大し、構造が複雑化すればするほど、その維持に必要なエネルギーは幾何級数的に増大する。最初は立ち食いの「かけ蕎麦」のようにシンプルで、迅速にカロリーを摂取するだけの機能体だった組織が、気づけば脂ぎった「二郎系」に変貌を遂げているのを想像してほしい。
丼(オフィス)の縁まで盛られた野菜(管理職)と、分厚いチャーシュー(役員)、そして大量のニンニク(コンプライアンス規定)。トッピングが増えるほど、全体を攪拌する労力は増大する。「天地返し」という名の組織改編を繰り返し、「コール」という名の根回しに奔走する。本来の目的である「麺を食べる(事業を遂行する)」という行為は、いつしか器から溢れ出しそうになるギトギトのスープを拭う作業(無意味な調整会議)に取って代わられるのだ。我々は、その白濁したスープの海に沈む、伸びきった麺のような存在でしかない。
摩擦:摩耗する肉体と精神の収支報告
組織という閉鎖的な空間で労働者が動くとき、そこには必ず「摩擦」が生じる。人間関係の軋轢、不条理な稟議、隣の席から聞こえる貧乏ゆすりの音、そして「そもそも、このExcelのセルを埋める作業に何の意味があるのか」という実存的な問いだ。
これらの摩擦は、すべて「熱」として散逸する。物理的な熱エネルギーとして、あるいは精神的なイライラとして。この無駄な熱を、経営層は「情熱」や「社風」という甘美な言葉で再定義しようとするが、実態は単なるエネルギー変換効率の悪さの露呈である。脳に嘘をつかせて、効率の悪いエンジンの回転数を無理やり上げさせているだけなのだ。
スマホのバッテリーが劣化するように、我々の労働主体もまた、毎日の充放電を繰り返すたびに内部抵抗が増大していく。朝、無理やり胃に流し込んだコンビニの安物のコーヒーで充電100%を装っても、午後三時には省電力モード、いや、強制シャットダウン寸前だ。我々は定常状態にあるのではなく、常に崩壊し続けることを許容された「動的な定常」を維持するために、全力を尽くしている。
なんだこれ。
この「摩耗」を和らげるために、人々は妙な儀式に金をかける。椎間板が悲鳴を上げ、坐骨神経が痺れを訴える頃になって、ようやく我々は気付くのだ。この苦痛は精神論では解決しない物理現象だと。そこで人々は、人間工学に基づきメッシュ素材で重力を分散させると謳うアーロンチェアのような高価な什器に救いを求める。二十万円以上もの大金を投じて得られるのは、腰痛の緩和か、それとも「自分はまだメンテナンスされている高級な部品である」という錯覚か。沈みゆく泥舟の中で、自分の座席だけを豪華にするような滑稽さを禁じ得ないが、そうでもしなければやってられないのも事実だ。
停滞:熱的死としての官僚化
さて、ここで言う「公共性」とは、熱をシステム外へ効率よく逃がすための巨大な排熱ダクトのようなものだ。
「自分たちの仕事が誰かの役に立っている」という幻想は、内部に溜まったヘドロのような不満や疲労を、社会という巨大な熱溜まりへ逃がすための安全弁として機能する。この弁が壊れると、組織は内破する。ブラック企業と呼ばれるものが、しばしば物理的な意味で「暑苦しく」、精神的な意味で「閉塞的」なのは、排熱システムが最初から設計ミスを起こしているからだ。
一方で、事業が成熟し、安定期に入ると、今度は「構造の硬直化」という問題が発生する。これは情報の多様性が失われ、システムが熱的死に近づいている兆候だ。かつての野心的な集団が、今や巨大な官僚組織となり、スタンプラリーのような承認フローに明け暮れている姿は、まさに宇宙の終焉を凝縮して見せられているようで、実に哀愁が漂う。
彼らはもう、負のエントロピーを摂取する力さえ失っている。ただ、過去の慣性だけで動いている、死にかけの矮星だ。その内部では、新しいアイデアは生まれる前に組織の重力に押し潰され、ただ昨日と同じルーチンが、冷え切ったスープのように繰り返される。会議室のプロジェクターだけが空しく熱を放ち、誰も読まない議事録がサーバーの容量を圧迫していく。
放出:崩壊を受け入れるための儀式
結局のところ、我々にできるのは、この絶望的な散逸プロセスの中で、いかにして自らの「崩壊速度」をコントロールするかという一点に集約される。
労働とは、単なるエネルギーの浪費ではない。無秩序なデータやノイズというカオスを、最低限の秩序ある情報へと変換する、徒労に満ちた代謝であるはずだ。それがどれほど小さな変換であっても、その瞬間にだけ、我々は物理法則の冷徹な支配——「すべては壊れる」という真理——から、一時的に目を逸らすことが許される。
しかし、現実はどうだ。
明日もまた、意味のないメールを量産し、誰にも読まれない報告書を積み上げ、システムの維持のためだけに自らのバッテリーを削り取っていく。
帰りたい。
研究室の窓から見える街の明かりは、すべて無数の散逸構造が放つ、最期の叫びのように見える。あの光の一つ一つが、誰かの寿命を燃料にして、エントロピーの増大をわずかに、ほんの数秒だけ遅らせている。その健気さを「美しい」と呼ぶか「滑稽だ」と呼ぶか、私にはまだ判断がつかない。
お湯を沸かす時間が来た。これもまた、一つの熱力学的営みだ。カップ麺の三分間を待つ間、私はまた一つ、この世界の崩壊を許容することにする。湯気と共に消えていく熱こそが、私が今日ここに生きていたことの、唯一の証明なのだから。

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