腐敗の熱力学

死体への化粧

世に蔓延る「経営コンサルタント」なる手合いたちが、ホワイトボードに美しい矢印やマトリクスを描き、「組織の最適化」やら「シナジー効果」やらを説いている姿を見るたびに、私は胃の腑がねじ切れるような不快感を覚える。彼らの描く図式は清潔で、幾何学的で、そして致命的なまでに嘘くさい。彼らは、組織というものが本質的に「腐りゆく死体」であることを意図的に、あるいは無知ゆえに忘却している。

組織とは、機能的な歯車が噛み合う機械ではない。それは、構成員が吐き出す二酸化炭素と、支払われることのない残業代という名の「生命エネルギー」を糧にして膨れ上がり、脈打つ、制御不能な巨大な腫瘍である。この不快な膨張を記述するのに、経営学の甘っちょろい用語は不要だ。必要なのは、この宇宙で最も冷酷かつ絶対的な法律、物理学のみである。

先週、どこかのスタートアップの若造が「わが社は自己組織化するアジャイルなチームです」と鼻息荒く語っていたが、あれは単に「ルールを決める知能がないので、全員で適当に散らかしています」という敗北宣言に等しい。組織を放っておけばどうなるか。熱力学第二法則がその答えを突きつける。閉鎖系においてエントロピー(無秩序さ)は増大し続ける。昨日の整然としたオフィスが、一週間後には脱ぎ捨てられた靴下と、誰のものか分からないコンビニ弁当の空き容器で埋め尽くされるのは、社員の怠慢などではない。宇宙が「無秩序」を渇望しているという、抗いようのない摂理なのだ。

泥濘(ぬかるみ)

私たちが「仕事」と崇めている営みの正体は、この指数関数的に増大し続けるエントロピーの濁流に逆らい、無理やり秩序らしきものを捻り出す「負のエントロピー(ネゲントロピー)」の摂取行為に他ならない。しかし、この摂取プロセスこそが、組織をグロテスクな怪物へと変貌させる。

卑近な例として、駅前の立ち食いそば屋の「かけそば」を想起せよ。麺、つゆ、ネギ。構造は単純で、予測可能性が高く、エントロピーは低い。創業当時の組織はこれだ。しかし、組織が成長し、資金調達を行い、余計な「意識」を持ち始めると、それは瞬く間に「マシマシ」を謳う二郎系ラーメンへと変貌する。もはや食品というよりは、熱力学的なカオスだ。

組織における「複雑化」とは、単なるトッピングの追加ではない。それは、一人の人間が処理できる限界を超えた「欲望の澱(おり)」の堆積である。丼の表面を覆い尽くす分厚い脂の層は、実務を何一つ行わない中間搾取業者や、右から左へメールを転送するだけで給料を掠め取るコンサルタントの手数料そのものだ。山盛りの野菜は、増殖し続ける無能な管理職たちの群れであり、彼らが吐き出す二酸化炭素によって、オフィスの酸素濃度は低下し続ける。そして、暴力的なまでのニンニク臭は、コンプライアンス遵守を叫びながらハラスメントの境界線を反復横跳びする上層部の檄文だ。

この混沌とした丼の底では、意思決定という名の麺が伸びきり、ドロドロに溶けて腐敗している。部署が一つ増えるたびに、稟議書のハンコ欄という名の関所が増え、組織の毛細血管が詰まっていく。淀んだ空気の中で「去年もこうだったから」というカビのような慣習が繁殖し、壁のシミのように定着する。SDGs推進室だの、ウェルビーイング向上委員会だのという煌びやかな看板は、その腐臭を誤魔化すために撒かれた安っぽい消臭剤に過ぎない。

物理学的に見れば、この悪臭に満ちた停滞を維持するためだけに、外部から投入された資本(エネルギー)の大部分が浪費されている。本来の生産活動とは無関係な、社内政治という名の摩擦熱。意味のない会議で消費される電力。それらはすべて、系を崩壊させないための無駄なコストとしてドブに捨てられている。スマホのバッテリーが、何もしていないのにバックグラウンド処理だけでゴリゴリ削られていく、あの虚しさと同質の絶望がここにある。

散逸と防波堤

ここでイリヤ・プリゴジンが提唱した「散逸構造」という概念を引こう。平衡状態から遠く離れた非平衡状態において、エネルギーが系を通り抜けていく過程で、自発的に秩序が生まれるという理論だ。組織における「イノベーション」という耳触りの良い言葉の正体は、この散逸構造の形成プロセスに他ならない。つまり、組織が死なない程度に壊れ続け、外部から膨大な情報を「食べて」は、不必要な熱(ゴミや摩擦)として「吐き出す」排泄行為そのものである。

しかし、現代の組織はこの「排泄」を病的なまでに嫌う。失敗プロジェクトを隠蔽し、不採算部門を温存し、もはや思考停止した無能な老兵を窓際に囲い込む。物理的に言えば、これは排熱口を塞いだままエンジンを全開にする自殺行為だ。内部温度は上昇し続け、エンジンはいずれ焼き付く。

多くの経営者が、この焦げ付くような内部崩壊の予兆を感じ取り、不安を紛らわせるために目に見える「秩序の形」を買い漁る。例えば、触れるだけで規律を取り戻したと錯覚させるデスクマットや、座るだけで背骨が伸びて人格まで矯正されると信じ込まされている高価なエルゴノミクスチェアだ。彼らはそれらのガジェットを「生産性の象徴」として崇め奉るが、実際にはエントロピーという名の濁流に抗うための、あまりに滑稽で頼りない防波堤に過ぎない。あんな牛の皮の切れ端やメッシュの布地で、物理法則の浸食が食い止められるはずもないのだ。

人間が抱く「この組織を良くしたい」という感傷的な熱意など、脳内の神経伝達物質が引き起こす一時的なバグに過ぎない。情熱で仕事が回るのではない。外部から投入された資本(エネルギー)が、組織という触媒を通り抜けて、いくらかの付加価値と、膨大な疲弊という熱に変換されているだけなのだ。

偽りの秩序

では、私たちが崇拝する「公共的な秩序」とは何か。それは、個々の散逸構造(組織)が放出した「熱」や「毒素」を、社会全体でどのように処理するかという、巨大な排熱システムの設計図に他ならない。さらに言えば、公共性とは「他人の家の庭に自分のゴミを投げ込む際のマナー」のことだ。

一企業が利益を上げ、ネゲントロピーを蓄積する裏側では、必ずどこかで誰かがその分のエントロピー(負債)を押し付けられている。それは下請け企業への買いたたきかもしれないし、サービス残業という形での寿命の搾取かもしれないし、あるいは見えない場所に廃棄された産業廃棄物かもしれない。社会秩序とは、この醜悪な「ゴミの押し付け合い」をスマートに見せかけ、互いに見て見ぬふりをするための隠蔽工作である。

しかし、この隠蔽工作のためのルール作り自体もまた、一つの散逸構造としてエネルギーを浪費する。コンプライアンス委員会が設立され、環境保護対策会議が開かれる。その会議室を冷やすために火力発電所が二酸化炭素を吐き出し、参加者の喉を潤すためにペットボトルが消費され、誰も読まない議事録という名の「紙の死骸」が山積みになる。私たちは、ゴミを掃除するふりをして、より多くのゴミを生産し続けているのだ。この「善意という名の浪費」がいかに滑稽か。無限に続く合わせ鏡のようなエントロピーの増大ループの中に、私たちは閉じ込められている。

結局、組織の進化とは「より効率的にエネルギーを浪費し、より巧妙にゴミを隣人に押し付ける方法」を見つける旅に過ぎない。どれだけ洗練されたガバナンスを導入しようと、どれだけ高尚な理念を掲げようと、エネルギー保存の法則からは逃げられない。

熱死への徒労

賢明な諸君は、もうお気づきだろう。組織を管理し、秩序を維持しようという試みは、満潮が迫る砂浜に城を作る子供の遊びと同じだ。波(時間の経過と環境の変化)は必ずやってきて、すべてを平衡状態、すなわち「均一な無」へと連れ去る。

それでもなお、私たちが朝起きてネクタイを締め、満員電車という高エントロピーな地獄釜に身を投じるのは、そこに希望があるからではない。単なる習慣だ。あるいは、飢えを凌ぐための低次の生存本能という名の物理プログラムが、バグりながらも作動しているに過ぎない。

そこに意味などない。あるのはただ、不可逆な時間の流れと、絶対零度に向かって冷え切っていく宇宙の温度だけである。我々に残されたのは、この冷えゆく宇宙の中で、隣人の体温を奪い合いながら、少しでも長く「腐敗」を先延ばしにするという、絶望的な徒労だけである。

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