前回の講義――というか、前回の酒の席で、組織がいかにエントロピー増大の法則に従って自壊していくかという、あまりにも救いのない話をしたが、覚えているだろうか。システムが複雑化すればするほど、熱は逃げ場を失い、やがて組織は均質で冷たい「熱的死」を迎える。しかし、人類という種は往々にして往生際が悪い。その死にゆく組織の中で、我々は「合意形成」という名の、あまりにも非効率で、かつ滑稽な宗教的儀式を繰り返す。これは、閉店間際のスーパーで割引シールが貼られるのを待つ、あの惨めな期待感に似ている。
例えば、そうだな。職場の忘年会の店選びを想像してほしい。
若手は「二郎系ラーメンの脂に溺れたい」と叫び、健康診断の結果に怯える課長は「温かい蕎麦」を、そして空気を読まない役員は「六本木の高級寿司」を主張する。この、あまりにも次元が異なる欲望のベクトルを一つの点に収束させようとする試み。これが民主主義の正体であり、公共的意思決定という名の地獄だ。
結局、誰かが妥協し、誰かが恨みを抱き、最終的には全員が微妙な顔をして「かけ蕎麦」を啜ることになる。二郎を求めた若手の胃袋は満たされず、高級寿司を夢見た役員は不機嫌だ。この「納得感の欠如」というコスト、つまり、汗をかいて並んだのに自分の直前で限定商品が売り切れた時のような、あの腹の底から湧き上がる「チッ」という舌打ちの集積こそが、統計多様体における「曲率」の正体である。
祝祭の摩擦
我々が「話し合い」と呼ぶプロセスを、情報の冷徹なレンズで覗いてみよう。
個々の意見は、欲望という名の座標軸に打たれた点に過ぎない。社会全体の意思決定とは、これらのバラバラな点(確率分布)を統合し、一つの代表的な決定へと射影する操作だ。しかし、そこに潜むのは「情報の破棄」という名の虐殺である。
多次元の豊かな欲望を、一次元の「イエスかノーか」という貧相な軸に無理やり押し込める際、そこに凄まじい「摩擦」が生じる。これは、狭い玄関に無理やり大きな粗大ゴミを押し込もうとして、壁紙が剥がれ落ちる時の不快な音と同じだ。
政治家が選挙のたびに叫ぶ「国民の声を聴く」というスローガンは、熱力学的に言えば「計算資源をドブに捨て、システムの熱効率を著しく低下させる」という宣言に等しい。彼らは対話を尊ぶふりをしながら、実際には大量の情報をシュレッダーにかけているだけだ。そのシュレッダーの刃がこすれ合う摩擦熱で、社会の空気はいつも澱んでいる。
馬鹿みたいに。
なぜ、我々はこんな非効率なことを続けるのか。それは、人間が「論理」ではなく「物語」に依存する、不具合だらけの神経系を持っているからだ。たとえ結論が「最悪の選択(不味いかけ蕎麦)」であっても、そこに「対話という儀式」が介在したという事実に、脳は麻薬的な偽りの報酬を出す。実際には、スマホのバッテリーが劣化して80%から突然0%に落ちて暗転するように、合意形成のプロトコルも限界を迎えれば瞬時に崩壊し、暴動か沈黙へと至るのだが。
確率の曲率
合意形成の難易度は、空間がいかに歪んでいるか、つまり曲率として記述できる。
もし全員が同じような空腹感を抱えていれば、多様体は平坦であり、最適解への射影はスムーズだ。しかし、現代社会のように、ある者はキャビアを求め、ある者は道端の雑草で飢えを凌ごうとするほど価値観が分断された状態では、多様体は複雑に折れ曲がり、計算上の特異点――つまり「話が全く通じない壁」だらけになる。
この歪んだ空間で「正しい決定」を下そうとすること自体が、もはや算数的なナンセンスなのだ。決定を下す側の人間――例えば官僚やCEO――は、この曲率がもたらす猛烈なストレスに肉体レベルで耐えなければならない。彼らが、もはや人間としての共感性を摩耗させ、無機質なマシーンと化していくのは、ある種の情報幾何学的な必然と言える。
そんな限界寸前の彼らが、唯一の物理的な救済を求める場所がある。それが「書斎の椅子」だ。重力という絶対的な物理定数に対し、絶望で歪んだ背骨の曲率を完璧に補正してくれるアーロンチェアに深く身を沈めるとき、彼らはようやく「公共性」という名の、実体のない重圧から解放される。あるいは、何の意味もなさない合意文書に、自分の魂を切り売りするようにサインをする際、マイスターシュテュックが紙の上を滑る、その不気味なほど滑らかな感触だけが、彼らにとって唯一の「真実」となるのだ。
高価な道具に執着するのは、精神が摩耗した人間が、せめて物理法則(摩擦係数や弾性率)の世界にだけは裏切られたくないという、切実な防衛本能だ。1円でも安く済ませようとする大衆の合意形成の裏で、指導者たちはこうして自らの肉体を守るためのコストを、人知れず決済し続けている。
演算の墓場
さて、この「合意形成という名の構造的バグ」を修正する方法はあるのか。
そこで登場するのが、アルゴリズムによる徹底的な統治である。人間の情緒や政治的配慮、あるいは「なんとなく」といった不純なノイズを一切排し、社会全体のウェルビーイングを最大化するパラメータを、冷徹な演算処理が自動的に算出する。
そこには対話も、納得も、物語もない。ただ、最適化された分布への最短距離の射影があるだけだ。
「忘年会は、栄養価とコストパフォーマンスの観点から、全員松屋の牛めしとする」という、冷徹だが数学的に正しい解が提示される。これこそが、情報幾何学的な理想郷だ。多様体の曲率はゼロになり、エントロピーの増大は最小限に抑えられる。無駄な会議も、上司への忖度も、すべては計算機の中の電子の藻屑と消える。
しかし、人間はその平坦すぎる世界に耐えられないだろう。
我々は、自分の意見が無視されることよりも、自分が「計算結果の一部」として処理されることに、より深い絶望を感じるように設計されているからだ。給料日の明細を見て、引かれた税金の額に舌打ちをするあの瞬間、我々は自分が単なる「納税ユニット」であると思い知らされる。アルゴリズム統治とは、人生のすべてがその「納税の瞬間」のような無機質な処理に置き換わることに他ならない。
帰りたい。
結局、我々は不合理な合意形成という無駄を愛し、その過程で生じる歪みに苦しみ、そしてその苦しみを紛らわせるために高い椅子を買う。この救いのない循環こそが文明の正体だ。演算がすべてを統治する日は近いが、その時、我々は「納得」という名の処理不可能なバグをどこに捨てるべきか、まだ答えを持っていない。
さて、そろそろこの無意味な議論を切り上げよう。外は寒いし、私の財布も寒い。
誰かが私の意見を無視して勝手に決めた、不味くて高い居酒屋へ行くとしよう。そこで、全く噛み合わない議論を肴に、高度な演算装置には決して理解できない「無駄な時間」と「安酒」を浪費するのだ。それが、この歪みきった多様体を、死ぬまで生き抜く唯一の作法なのだから。

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