熱とゴミ

前回、個人の生産性などというものが、いかに賽の河原の石積みに似た虚しい徒労であるかを語った。必死にタスクを消化し、脳のキャッシュをクリアにしたところで、翌朝にはまた新たなゴミが通知センターに堆積する。全く、救いがない。

だが、この徒労感の原因を個人の資質に求めるのは、熱力学を知らない素人の浅知恵だ。諸悪の根源は、あなたが所属する「組織」という、巨大で、無慈悲で、そして驚くほど熱効率の悪い熱機関の構造的欠陥にある。今日は、この泥臭い労働という営みを、非平衡熱力学の冷徹なレンズを通して、その醜悪な断面を解剖してみよう。

馬鹿みたいに。

腐敗

組織が立ち上がった瞬間、そこには夏の生ゴミが腐っていくような、不可逆で不可避な「終わり」へのカウントダウンが始まる。これを物理学ではエントロピー増大の法則と呼ぶが、お前たちがありがたがっている「ビジョン」だの「ミッション」だのという言葉は、その腐臭を誤魔化すための、安っぽいトイレの芳香剤に過ぎない。

考えてもみてほしい。新卒入社した若者が抱く「社会を変えたい」というピュアな熱量は、組織という名の燃焼室に入った瞬間に、意味不明な社内調整、印鑑の角度、そして「それ、エビデンスあるの?」という上司の溜息によって、その大半が摩擦熱として浪費される。このエネルギーのロスこそが、組織におけるエントロピーの正体だ。

それはちょうど、スマホのバッテリーが数年も使えば急速にへたっていく現象に似ている。リチウムイオンの移動が物理的な劣化を招くように、情報のやり取りが増えれば増えるほど、組織内には「忖度」や「既得権益」という名の不純物が蓄積する。初期のキレ味は失われ、次第に資金調達や採用という名の「充電」ばかりが必要になり、肝心の出力は微々たるものになる。

何より滑稽なのは、この劣化を食い止めるために、さらに高価な備品や外部コンサルという名の延命措置を導入することだ。例えば、座っているだけで腰の神経をすり潰すような労働の苦痛を緩和するために、30万円もする鉄の塊をオフィスに導入する経営者の無能な金銭感覚を見ろ。ただの布と金属の質量に、なぜ中古車が買えるほどの値段がつくのか。物理学的に言えば、それは単なる質量と反発係数の問題に過ぎない。椅子を新調したところで、座っている人間が組織のゴミを生成する歯車である事実に変わりはないのだ。この無駄な金の流れこそが、組織に溜まった精神的な膿を排出するための、不格好なバイパス手術に他ならない。

腰が痛い。

散逸

では、組織はただ朽ち果てるのを待つだけの存在なのか? 物理学者イリヤ・プリゴジンは、外部に対して開かれた系であれば、エントロピーを排出することで秩序を維持できる「散逸構造」の存在を提唱した。

しかし、事業の実態は、そんな美しい言葉で飾れるような代物ではない。それは「二郎系ラーメン」のどんぶりの中で起きている現象そのものだ。ギトギトの背脂と酸化した醤油、そして茹ですぎたモヤシが混沌と混ざり合う、あの泥沼のような乳化現象を見ろ。あれは平衡状態ではない。スープが分離すれば食えたものではないからこそ、常に熱を与え、混ぜ続け、客の血管を詰まらせるほどの負荷をかけ続けることで、辛うじて成立している「非平衡な奇跡」なのだ。

会社が成長している状態とは、この二郎のスープのように、より大規模に、より高速に、周囲の環境をかき乱しながらエントロピーを外部へ押し付けている状態を指す。お前が感じている「やりがい」とは、そのスープに混じった過剰な化学調味料による、一時的な味覚麻痺に過ぎない。自分が巨大な熱循環の一部であるという錯覚。そのバグを維持するために、私たちは今日も満員電車という名の、熱力学的に極めて不快な人間圧縮プロセスに耐えている。

そして、この不健康な循環を維持するために、私たちはまた消費へ走る。使い道のない革の塊を数ヶ月分の給料で買い、自分を装飾するのだ。職人がその革をなめし、成形するために費やした時間は、重役のくだらない見栄を満足させるためのエントロピー排出の犠牲となった。その行為自体が、社会という巨大なゴミ捨て場にさらなるゴミを投げ捨てるための入場料なのだから、救いようがない。

なんだこれ。

祈り

しかし、この散逸構造が「公共性」という言葉と結びついたとき、その欺瞞は極まる。公共的価値などという言葉は、飲み会の最後にテーブルに残った、冷めて油が回った唐揚げの処遇によく似ている。誰も欲しがらないが、誰かが片付けなければならない不始末。組織が「公共的」になるとは、利益を追求する熱狂に疲れ果て、もはや自分たちの排泄物の処理さえ面倒になった末の、諦めの境地である。

情報の幾何学的な視点で見れば、組織の境界線は曖昧だ。社員、顧客、株主、そして道ゆく見知らぬ人々。彼らとの情報の相関を最適化し、不確実性(サプライズ)を最小限に抑えることが、真の意味での「公共性」などと言われるが、実態は違う。それは「明日の朝、目が覚めなければいい」と願うサラリーマンの祈りと同じ、静かな死へのプロセスだ。

ここで、組織における最も無駄で、かつ熱力学的に興味深い現象である「会議」について触れておかねばならない。窓のない会議室に閉じ込められた重役たち。彼らはそこで何をしているのか。何もしていない。ただ、加齢臭混じりの二酸化炭素を排出し、無意味な沈黙と、誰も責任を取らない発言の応酬によって、室内のエントロピーを極限まで高めている。

物理学的に見て、あの空間は異常だ。仕事が進む(=秩序が形成される)わけでもなく、ただ「検討します」という言葉が空気を振動させ、熱エネルギーとなって消えていく。彼らの時給換算された莫大なコストは、この「無駄な沈黙」を維持するためだけに燃やされている。それはあたかも、アクセルとブレーキを同時に踏み込んだままエンジンを空吹かししている廃車寸前のトラックのようだ。車体は一ミリも進まないが、燃料だけが激しく浪費され、周囲に排気ガスを撒き散らす。これを「経営判断」と呼ぶのだから、人間の認知機能というのは実に都合よくできている。

さて、グラスが空になった。

組織を語ることは、自らの有限性を語ることでもある。私たちは散逸構造の一部として、今日もエネルギーを消費し、世界を少しだけ無秩序に書き換えていく。その不可逆な流れの中で、せめて自分の排出するゴミが、誰かの暖炉の焚き木くらいにはなることを願うしかない。

帰りたい。

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