場末の幾何学
前回の議論――いや、あの駅裏の薄汚いバーで、氷の溶けかけたハイボールを啜りながら交わした「システムの冗長性」の話を覚えているだろうか。結局のところ、生物も組織も、効率化という名の過度なダイエットに励んだ瞬間に、ほんの些細な環境変化という名の「風邪」で死に至る虚弱体質へと成り下がる。最適化とは、不確実な未来に対する防御壁を自ら撤去する、緩やかな割腹自殺に他ならない。
さて、今日はその延長線上にある、さらに性質の悪い「幻想」について話をしよう。公共政策という、国家が我々の血税を投じて行う壮大なおままごとと、それを裏で操る情報の幾何学的な構造、そして我々がいかにして「搾取される肉塊」であり続けているかについてだ。
その安っぽいコンビニのコーヒーでも飲みながら聞いてくれ。どうせ明日になれば、君も私もこの不条理な組織という名の回転木馬を回すための、替えの利く歯車の一つに戻るのだから。
脂ぎった空虚と報酬系のバグ
組織改編だの、デジタルトランスフォーメーションだの、世の中の「お偉いさん」は新しい横文字が大好きだ。しかし、彼らが「我が社のビジョン」だの「持続可能な社会」だのと唾を飛ばして抜かしているとき、その実態は驚くほどスカスカである。それは、中身のない高級ブランドの紙袋を、さも宝物が入っているかのように大事そうに抱えて歩く、見栄っ張りの道化そのものだ。
そもそも組織というものは、個人の高潔な意志の集合体などではない。それは、特定の「予算という名の餌」に向かって群がるアリの行列、あるいは目的関数を持たない情報の処理経路に過ぎない。しかし、悲しいかな、人間という進化の袋小路に入り込んだ欠陥デバイスは、「会議に出ている自分」や「資料を作成した自分」という自己陶酔に、ドーパミンを分泌するように設計されている。神経科学的に言えば、「やった感」という名の脳内麻薬が生成され、本質的な成果とは無関係に、会議室の二酸化炭素濃度と室温を無駄に上昇させているだけなのだ。
これは、こだわりの強い職人が作る繊細な「かけ蕎麦」と、ギトギトの脂と化学調味料で本質を覆い隠す「二郎系ラーメン」の違いに似ている。現代の公共政策の多くは、間違いなく後者だ。具材(予算と人員)を親の仇のように山盛りに積み上げ、ニンニク(広報宣伝)を大量に投入すれば、肝心の中身の麺(本来の目的)が伸びきっていようが、スープが薄かろうが、なんとなく「腹がいっぱいになった」という暴力的な錯覚は得られる。だが、そこに栄養学的な合理性など微塵もない。食後に残るのは、強烈な胸焼けと「なぜこんなものを食べてしまったのか」という後悔、そして膨らんだ腹という名の解消しがたい負債だけだ。
結局、我々が「組織の進化」と呼んでいるものは、情報の多様体の上を高度に計算されて動いているわけではない。ただ、脂ぎった床の上で足を滑らせながら、出口のない円環をぐるぐると回っているだけの、滑稽な舞踏に過ぎないのだ。
統計的乖離という名の「ぼったくり」
ここで少し、視座を上げて情報の幾何学について解剖してみよう。公共政策がなぜこれほどまでに現場の皮膚感覚と乖離するのか。それは、永田町や霞が関の政策立案者が想定している「社会」というモデルが、現実の泥臭いデータが描く複雑に入り組んだ曲面を、あまりにも稚拙なユークリッド平面に投影しているからだ。
情報幾何学の視点で見れば、確率分布の空間には「距離」が存在する。これをフィッシャー情報計量と呼ぶ。例えば、ある政策が「格差是正」を掲げて現状のA地点から理想のB地点へ社会を動かそうとするとき、その「最短経路」は、役人が定規で引いたような直線ではない。情報の密度、すなわち「どこに誰の怨嗟が溜まっているか」「どの路地裏に貧困が凝縮されているか」によって空間は歪んでおり、そこには深い谷や越えられない高い山が存在する。
官僚や経営者がパワーポイントで描くロードマップは、まるでスマホの画面がバキバキに割れていることも気づかずに「この地図通りに進めば必ず宝島に着く」と強弁する狂人の予言に近い。現実の社会というリーマン多様体の上では、ほんのわずかな増税や規制の修正が、統計的な爆発を引き起こす。彼らが「誤差(エラー)」として切り捨てた、路地裏で静かに死んでいく独居老人の嘆きや、残業代も出ずにコンビニのおにぎりを啜る若者の絶望こそが、実は空間の曲率――すなわち、この社会の「歩きにくさ」を決定づけているというのに。
この統計的な乖離を埋めるために、彼らはさらに「説明責任」という名の高価な紙の山を築く。その儀式のために、彼らは驚くほど高価な万年筆を買い込み、まるで免罪符を偽造するかのように無意味な報告書を量産する。一本数万円、場合によっては数十万円もするペン先から溢れ出すインクが、実態を伴わない虚無の記号と、他部署への責任転嫁のレトリックだけだというのは、滑稽を通り越して、もはや一種の「公共の害悪」ですらある。その金で、現場のPCのメモリでも増設した方がよほどマシだ。
非ユークリッドの審判と熱力学的な死
さて、ここにAIという名の「無慈悲な計算機」を導入するとどうなるか。昨今のAIブームに浮かれる連中は、AIが人間にとって都合の良いユートピアをもたらすと信じているが、それは大きな間違いだ。
AIの意思決定空間における計量は、人間のそれとは根本的に異なる。人間が「納得感」や「義理人情」、「倫理性」という、生物としての生存本能に根ざしたバイアスで測る距離を、AIは純粋な情報エントロピーの勾配、あるいはコストとベネフィットの極限値として処理する。そこに情け容赦はない。
公共政策の最適解を真の意味でAIに求めれば、おそらく「生産性の低い高齢者や、維持コストの高い地方都市を切り捨てるのが、国家全体のエネルギー効率を最大化する最短ルートである」といった、計算上は完璧に正しいが、人間には耐え難い結論を平然と導き出すだろう。人間が「正義」や「福祉」と呼んでいるものは、宇宙全体を支配する熱力学第二法則に対するささやかな抵抗、すなわち局所的なエントロピー減少(負のエントロピー)を維持するための、非常にコストのかかる幻想に過ぎない。我々は、宇宙が冷え切っていく過程で生じた一瞬の火花を、「意味」という名の重厚な物語で塗り固め、自分たちが特別な存在であると信じ込みたいだけなのだ。
AIにとって、組織の進化とは情報の自由エネルギーの最小化であり、多様体上の最短測地線を突き進むことに他ならない。そこには「公共性」という名の曖昧な霧は存在しない。あるのは、巨大なデータセンターのサーバーラックが吐き出す熱気と、確率分布の収束という冷たい事実だけだ。
我々は、自分たちが作ったアルゴリズムに、自分たちの「人間らしさ」という名の非効率なバグを裁かれる時代に突入している。しかし、皮肉なことに、そのAIを動かす膨大な電力を賄うために、我々は今日も化石燃料を燃やし、地球全体の熱力学的な死を加速させている。機械が「効率」を叫ぶたびに、我々の生活圏は物理的な熱に侵され、気候は狂い、空間は歪んでいく。これは高度な喜劇か、あるいは質の悪い悪夢か。
肉塊の座標
帰りたい。
腰が痛い。この異常に高価なエルゴノミクスチェアに座って、画面上の数字をいじっていても、結局のところ、重力という物理法則と、加齢という不可逆なプロセスからは逃れられないのだ。20万円も払って手に入れたのは、快適な座り心地などではない。自分がただの「座りっぱなしで代謝が落ち、重力に押し潰されかけている肉塊」であるという、惨めで痛々しい自覚だけだった。メッシュの座面がどれほど通気性に優れていようと、そこに座る人間の思考が澱んでいれば、何の意味もない。
公共政策も、組織進化も、この椅子と同じだ。どれほど洗練されたデザインを施し、幾何学的に正しい理屈を並べ立てようとも、そのシステムの上に座っている人間が「情報のゴミ」と「欲望の排泄物」を出し続ける限り、その空間の計量は歪み続け、いつか必ず破綻する。我々は、自分たちが作り出した複雑すぎるシステムの重みに耐えきれず、自壊していくのだ。
さあ、もう一杯。次は、この歪んだ多様体の中で、いかにして「賢く絶望し、静かに消えていくか」について語り合おうじゃないか。会計は、もちろん割り勘だ。

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